『スター・ウォーズ テイルズ・オブ・ジェダイ』(スター・ウォーズ アニメ感想①)



あらすじ

プリクエル時代のジェダイたちに焦点を当てた6話の物語。中心となるのはアソーカ・タノとドゥークー伯爵という、全く異なる2人のジェダイ。その人生において、2人がいかに試練に立ち向かい、自らの運命を左右する決断を下してきたのかが語られる。

公式より


SWアニメ最新作

 ディズニープラスにて配信される「スター・ウォーズ」アニメ最新作は、アソーカとドゥークー伯爵の知られざるをエピソードを編んだ、『テイルズ・オブ・ジェダイ』全6話です。ファンには馴染み深い『TCW』同様のルックが嬉しい本作は一挙配信ということもあって各話15分強の短編アニメーションで構成されており、昨年の『ビジョンズ』、そして来年の『ビジョンズ Vol.2』へと今後も続く恒例の枠となっていきそうです。
 驚いたのは、各話毎に時系列も主要となるキャラクターも大きく違えたオムニバスでありながら全体を通して案外まとまりが良かったことで、ナンバリング映画やアニメシリーズの間隙を補完しつつもアソーカとドゥークー—―共にオーダーのやり方とは相容れず、ドロップしたふたりの人生を通して"ジェダイ"の生き様を語るお話へと仕上げます。


ドゥークー、その高潔さ故に

 ヨーダの弟子にしてクワイ=ガンの師匠、クローン軍の発注者たるサイフォ=ディアスの盟友、シディアスの弟子であるダース・ティラナスことドゥークー伯爵はその設定の盛られようの割にこれまでクローズアップされる機会が割と少なかった人物のひとりです。特にレジェンズ時代は新三部作周りのスピンオフがあまり邦訳されていないこともあり、日本語でその活躍を拝めるのは『ダース・プレイガス』『ボバ・フェット②』『暗黒の会合』くらいなものでした。近年、彼を主役にしたオーディオドラマ『Dooku: Jedi Lost』(と、そのスクリプト版)がリリースされましたがこちらも案の定わが国には入ってきておらず、全6話のうち3エピソードが彼に割かれているのには日本のファンには新鮮に映ったのではないでしょうか。
 ドゥークー伯爵は『TCW』に於いても宿敵として描かれる一方で、分離主義者を取り纏めるカリスマ的指導者として扱われ、単なる憎々しい悪役とはまた違ったオーラを放っています(ホンドーに捕まり、アナキンやオビ=ワンと一緒に三馬鹿電車ごっこをする茶目っ気も好きですw)。
 『EP1』以前の彼の姿を紐解いた本作では、ジェダイ・マスターとして任務をこなす最中に目にする人の醜悪さと必ずしも歓迎されているわけではないジェダイの現状、虐げられる弱き人々への同情とそれに対する激情が短い時間の中で余すことなく描かれ、優しすぎたが故に踏み外すことを選んだ"人間・ドゥークー伯爵"の為人に惹かれない者はいないでしょう。弟子の死を悼み、己の正体を知られ決裂するに至ってしまったヤドルにさえも慈悲と礼を尽くして"平穏"を願い対峙する。その姿はどこかアナキンのそれに似ている部分もあり、この3話ぶん、僅か45分の間にドゥークー伯爵ひいては新三部作への解像度がぐっと深まりました。
 加えて『EP1』の最中にもクワイ=ガンとドゥークーが会話を交わしていたという、ともすれば物議を醸し兼ねない大胆すぎるぶっ込みは、『EP1』終了時点でダース・プレイガスが存命であったことが明かされるかつての『ダース・プレイガス』並みの衝撃があり、この無茶筋もまた「スター・ウォーズ」スピンオフの面白さです。
 シスの復活とヤドルの退場、さらには『EP2』に絡んだあれこれを補完せしめる第4話と、そこに至るまでの過程は外伝には収まらない、堂々"本筋"に類する立ち位置の作品といえましょう。


ジェダイとして宿命づけられた者、アソーカ

 残りの3話で主役を張るのは言わずもがな、われらがアソーカ・タノです。アソーカの誕生の瞬間からスタートし、オーダー66から逃れた『EP3』後、尋問官との対決を経て再び戦いに身を投じる決意をするところで本作は幕を下ろします。
 アソーカの生い立ち、『TCW』S7の裏話に通ずるパダワン時代の訓練風景、やがては『反乱者たち』へと繋がっていく再起――徐々に不穏な気配が増してゆくドゥークー編に比べるとやや纏まりに欠く気がしないでもないですが、よくよく見てみればジェダイになる前→ジェダイの修行中→ジェダイを辞めた後、と順を踏んでいます。個人的には、赤ちゃんの身でありながら狂暴なサーベルタイガー(?)を宥め、おばば様に「この子はジェダイだ」と言われる第1話こそがすべての核であると感じていて、プロ・クーンが引き取りにきたわけでもない、まだ未来がわかっていないこの時点で敢えて"ジェダイ"という単語を用いたところがポイントであるように思います。
 アソーカは物心つく遥か以前、聖堂に来る前から立派に"ジェダイ"だったのです。カノンではしばしば修行の如何、出自を問わずその精神性がジェダイであればそれはジェダイであるという描き方が為されています。たとえば『ビジョンズ』のロップやT0-B1、或いは「明日のジェダイは君だ!」とやった『EP8』のテミリ・ブラッグくんがそうでした。
 であるならば。聖堂にいようが、破門されようが、若しくはオーダーが崩壊しようが、アソーカはいつどこにても間違いなくジェダイと称するに足る存在なのです。そしてそれはまた、ドゥークー伯爵にも同じことが言え、膠着した評議会の在り方に異を唱え、救えない者たちに寄り添おうとしたその心はたとえその過程で手を汚したとしても、しかしある一面ではジェダイと呼べるのではないか。シスではあるが、悪ではない。清廉潔白ではないが、その大義は本物で、すべてを否定して良いものか。また、すべての正義が理想一辺倒で実現できるわけではない。
――これは正に、現在進行形で紡がれる『キャシアン・アンドー』で突きつけられているテーマに外なりません。


テイルズ・オブ・ジェダイ—―鏡合わせのふたり

 本作がドゥークーとアソーカの2名を主軸にしたアニメだと聞いた際、取り立てて接点のなさそうな両者をニコイチにする意味とは何なのか、理解に苦しみ、頭を悩ませました。
 しかし実際に鑑賞したいま、はっきりとわかります。必要悪に甘んじてしまい、道半ばで倒れてしまったドゥークーにとってのifが、オーダーを離れてジェダイの冠さえなくなってもジェダイであり続けたアソーカなのです。
 そう考えると、本作がアソーカの産声に始まり、ドゥークーの苦悩を挟んで再びアソーカの物語で〆るのも至極納得がいくというもので、要するにアソーカこそがドゥークーが果たせなかったジェダイの生き方そのもの。その存在はドゥークーにとっての"希望"の体現です。
 決められた道から外れてもジェダイの心を貫き通したアソーカと、それができなかったドゥークー。一見、ほぼほぼ無関係のふたりによるオムニバスに思えて、実のところ6話でひとつの主題を説いている。そう、だからこそ『テイルズ・オブ・ジェダイ(ジェダイの物語)』。決して戯れで付けたわけではない、これ以上に相応しいタイトルはないのではないでしょうか。





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