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オーガニック原理主義

有機農家をしていると毎年いろんなお客さんや来訪者に出会います。サラリーマンだったら会えなかったはずの人に出会える、有機農家をしてるご褒美のひとつかも知れません。経営の方は、農園主のぼくが、現代社会にまったくついて行けていないのでSNSを活用することができず、現代の利器をスマートに活用して、お客さんの関心を惹いて、たくさん集客をしている同業者を横目に見ながら恨まやしいと指を咥えている毎日です。しょっぱい農家です。

原理主義なお客さん

ウチのお客さんのほとんどは、お客さんからの紹介や紹介の紹介と昭和ノスタルジーなスタイルですが、HP経由でも問い合わせはあります。そこから素晴らしい出会いになることもあれば、無農薬原理主義的な方に出くわして、疲弊することもあります。電話口で、肥料の種類や種のことから培土のことまで、農法の細部にわたって事細かに事情聴取され、よく知らない人のよく知らない主張について、どう思っていますか?などど聞かれて『その人知らないし、どうでもいい』と心のなかで塩対応したりしています。それでも僕なりに、誠実にがんばって答えようとはするのだけれど、あまりにもしつこいと、こっちは植えつけ途中やねん!草刈り最中やねん!あなたの自己満足に付き合ってる暇はないねん、野良仕事させてくれい、と心の中で悪態を吐いたりする時もあります。(心が狭くて、すみません)長引く嚙みあわない不毛な会話に根負けして、最後は『お客さんの求める基準をクリアしているかどうかはわかりませんけれど、僕としては正しいと思う選択をしているつもりです』と言ってお茶を濁します。だって、本当に、わからないもの。

食べて美味しければ、それでいいんじゃないか?が、農園の基本姿勢。その人の身体が素直に美味しいと感じる作物ならば、どんな農法であれ、その人にとっては良い作物なんじゃないだろうか?と、僕は思っています。もちろん相性もあるからウチの野菜に合わなければ、他を探して下さい、としか言えません。こだわりが強すぎるお客さんは、散々質問した結果、注文されなかったり、いつの間にかいなくなったりする事が多いです。きっと満足するまであちらこちらと放浪を続けて行くのでしょう。頭でしか味がわからないのかなぁ?形式で野菜を理解したいのかなぁ?たいへんだろうなぁ、と思いつつも、ホッと一息ついたりしています。経営的には、良くないのでしょうが。

農家に憧れる若者

農家になりたい!と目を輝かせながらやってくる若者にも、時々会います。『どうしてなりたいの?』と聞くと、地球環境の為とか未来の為とか自然のなかで働きたいとか一次産業が社会の基盤だからなどと、目をキラキラさせながら胸を膨らませています。始まる前から、壮大です。現実逃避なのか?

『農法は?』と聞くと、『やっぱ自然農とか有機栽培じゃないっスか、流行りだし、格好良いし、時代の流れでしょ』と、やっぱりキラキラしながらペラペラの答えが返ってきます。農業は、全然格好良くないし、殆どの時間は地べたに這いつくばって、世間からは取り残されているよ。

『一日、お手伝いします!』と意気込んで、手伝ってくれる時もあります。そんな若者には、なるべく無意味そうな作業をしてもらいます。草むしりとかをしてもらいます。だいたい2時間くらいで空を見上げて、半日ぐらいで半泣きになっています。時々、草むらから『ヒッ』と短い叫び声が聞こえてきます。ミミズとか虫とか蛇にでもあったのでしょう。休憩時間になると熱中症でフラフラになっていたり、草負けして腕が腫れあがっていたり、腰痛で生まれたての羊みたいにプルプルしていたりします。休憩中ずっと爪のあいだの土をこすっていたりとかね。そいで『ちょっと急用ができたので、今日は昼で帰ります』とか、言い出します。

『お疲れさん』と帰り際に声をかけると『お手伝いできて良かったです』とか言われます。大丈夫、全然手伝いになっていないから、どちらかと言うと僕の方がボランティアしてるから。『やっぱり自然のなかで汗を流すのはいいっすね』とか言います。顔、青白いけど大丈夫か?
勿論、そんな若者ばかりではありませんが。有望な子も、ちゃんといます。

やりたいコトに思想や意義を求めることは、全然悪くはないです。でも、最初からおおきくし過ぎて、正常な判断がとれなくなってない?その前にいちばん大切な『好き』の気持ちがあるのか?『楽しい』の気持ちがあるのか?他者に、行動の理由を求めていたら、いつか苦しくなるよ。苦しんでやる事が、正義ではないんだよ。

細分化する無農薬栽培

無農薬栽培にも、有機栽培や自然農、自然栽培、自然農法、パーマカルチャーなどの分化が見られます。僕はあんまり詳しくないけれど、有機肥料の使用の可否から来歴の違い、耕起か不耕起かの違い、固定種限定からマルチの使用可否まで、それぞれの農法によって細かな定義?があります。

生産性や収益性を重視した慣行栽培(農薬と化学合成肥料を使用する現在主流の一般的な栽培)から逸脱したマイノリティな栽培方法。わざわざ、そんな選択をしているのだから皆さん大なり小なり自分の考えを持っています。持っていなくては、持続できないのも事実です。僕にも、やはりあります。一部の経営を最重要視した有機農家さん以外は、大体おなじような思想を根底にして、農業をされていると思います。

それは、健康であったり風味であったりもしますが、大きな理由のひとつに環境負荷の低いとか持続可能なとか資本主義社会へのアンチテーゼであったりとかです。僕のなかにも、そういった意識は、やはりあります。ただ、近頃ちょっと気がかりなのが、そういった思想が先鋭化し過ぎている感があるな、ってことです。思想から農家を目指す若者が増えた。行為と目的がテレコになっていることです。

まとまれないマイノリティ

マイノリティな無農薬栽培のカテゴリーのなかで『自分たちの方が正しい』争いが起こってしまっています。慣行栽培を否定することは勿論、有機栽培よりも自然農が正しい方向だ!とか、パーマカルチャーが一番だ!とか、なんとか。原理主義的な他を認めない感じ。コレなにかに似ているなあ?と思っていたのですが、宗教の派閥争いとか政治思想争いと、おなじなんじゃないかな?と

選挙の度に毎度勝ってしまう与党。不思議で仕方がなかった。テレビや雑誌で嫌というほど裏切りや嘘や国民軽視を見せつけられているのに、なんで、また与党に投票する人がいて、勝ってしまうのか?が、わからなかった。ある時、気がついた。社会問題に興味を持った人たちは、その問題を理解するために、積極的に自らの意思で情報を収集する。そうして集めた情報の中で、自分の思想といちばん合致する方向へとドンドンと先鋭化してしまう。狭い世界ばかりを眺めて、それだけが最適解だと勘違いしてしまう。陰謀論信者の思考形成パターンと変わりがない。先鋭化した結果、別の問題に興味を持ち先鋭化した人達と『自分の問題の方が重要だ、解決方法はこれしかない』と喧嘩をはじめてしまう。考えれば考えるだけ、細分化してしまう。このまま与党に任しておくのはよくない、という意見は一致しているのに、マイノリティのなかで喧嘩をしちゃう、で、まとまれない。で、『なにも考えない』でまとまっている一大グループに負けてしまう。それでも『選挙?意味ない』と言って、ハナから棄権してる人よりはよっぽどマシなんですけれど。

マイノリティな無農薬栽培集団のなかでも、おなじことが起きているのではないだろうか?最終的に向かいたい方向は一緒なのに、通る道筋が違うだけで喧嘩して、おおきな流れにできない。それは勿体なくないか?

選択肢を与えてくれたのは、誰?

ネット社会が浸透して、自分の欲しい情報だけがサクっと手に入る。産まれたてのヒヨコが初めてみた物体を親と思い込んでしまうように、簡単に信じて、思い込んでしまう。他者の思想に丸投げした方が楽だから依存もする。過大な思想からスタートした農業だから自分がいちばん正しいと思ってしまう。誰だって、自分が属する集団が正しいと思いたいものだ。特に自分は汗を流さないで入力ばかりで、頭でっかちになってしまっている消費者は、信者になりがち。出力もしないとオーバーフローしちゃうよ。

でもさ、矛盾の上に成り立っている社会で自分だけが矛盾から逃れられる訳がないよね。今は有機農家をしていたり自然農をしているかも知れないけれど、99.5%の慣行栽培農家の苦労の上で育ててもらって、与えてもらえたから、自分の選択肢を選べたんじゃないのか?否定している資本主義社会の恩恵でインターネットとか流通網のお陰で、都会のお客さんと繋がれて、田舎でも特殊な農業が成り立っているんじゃないのか?

環境に負荷をかけない農法で育てりゃ、どうしたって、手間はかかり作物は高くなる。そこら辺で100円で売られている野菜も500円で売らなくっちゃいけなくなる。人間の社会活動≒経済活動に組み込まれりゃ、100円は100円の負荷がかかるし、500円は500円の負荷がかかる。お金って、そういうもんだ。偉そうな事を言っていても500円で売ってりゃ影響は5倍だ。そうやって経済基盤が成り立っているから再生産が可能になるんじゃないのか?

それでも500円の負荷のなかに未来への投資があるから自分たちの存在価値があると僕は思っている。お客さんが自分の信念に投資してくれていると思っている。まぁ、そんなに固く考えなくてもいい。『美味しいから買う』で十分なんだけれど。自然農は、有機栽培は、未来の農業とか言ったところで、矛盾はどうしたって発生するよ。自分の矛盾には目をつぶって、他人の矛盾をあげつらっていても仕方がない。おなじ場所を目指しているなら尚のコト。

好きなんです。自分勝手なんです。

他者の意見で自分の行動を決めていたら、その内に苦しくなる。流行りが廃れたら辞めちゃうの?おなじ場所を目指しているなら歩く道が違っていてもいいんじゃない。たとえ違う場所を目指している人がいても、それは仕方がない。僕の方が間違えてる可能性だって、大いにある。自然だって、農法だって、多様性がある方が、生き延びられる確率は高くなるよ。

有機だろうが自然農だろうが慣行だろうが、みんな土で手を汚して、地面に近い所から斜めむきに社会を眺めているのはおんなじじゃないか。誰も間違えていない。

否定するよりも、コッチの方が楽しいよ♪って、楽しくやっていたい。向こうの方で楽しそうに笑っていたら気になっちゃうもんだ。『仲間に入れて~』って、その内にやって来るかもよ?

好きだから農業をはじめた。楽しいから農業をやっている。与えてもらった上で、全部、じぶんで決めた。それが大事なんじゃないかと僕は思っている。それぐらいの心意気がなくっちゃ農家はできない。自分勝手でいいじゃないか、あんたの勝手でいいじゃないか、他人に押しつけなくてもいいんじゃないか、自分が信じていれば十分じゃないか、と心底思っている。





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