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自分に優しいと思う選択をする

今日は、たくさん寝た日だった。
朝、一度起きて、映画を見はじめたもののまたいつの間にか眠っていた。 はたと起きたらもう12時。
身体はスッキリ!というより若干だるく、「あぁ、寝すぎた。」という思考が湧く。「すぎる」という感覚に罪悪感を覚える。自分を居心地悪くしていることへの罪悪感だ。

その後は、あげていたタスクを実行したり、ダラダラとしたりして過ごす。
「あぁ、今日をどんな日にするか思い描いてなかったからか。」と自動的に生きていることを自覚すると、タスクを実行中、瞬間瞬間「どうする?」という自分が出てきた。
例えばほんの些細なこと、「明日のバイト先の場所を確認しておく」というタスクを実行中。
道順を調べながら、「え?このセブンってどのセブン?」と実際にどこにあるセブンかが気になった。「まぁ、行けばわかるでしょ。」と言う自分と「ビューまで見て実際にあの通りのどのセブンか確認しようよ。」と言うわたしが出てきた。

そもそも、「え?」と疑問が湧いている時点で何かつまづいている。わたしはよくこの「えっ?」となっている自分を無視して過ごすことが多い。そして、よく失敗する。

今日のわたしは、「主体的に選ぶならどちらを選ぶだろう?」と一呼吸置いて選ぶことにした。ビューまで見て、実際の位置を自分の認識しているものと一致するまで調べた。それは、わたしが自分に優しいと思う選択だった。
ほんの些細なことだけど、この小さな選択の積み重ねでわたしという人が成り立つのか!ということを体感した。

「えっ?」という声って、サポートしてくれていたんだ。
違和感を無視するとか、感じていないとか、そんなことを口にしたり、実際に思い知らされる体験を多々している。その体験を経験にするという意識があると、自然と次同じような場面でとる方法が見つかるんだ。

これまでのわたしは、余裕がなかったからだとか、感じていなかったからだとか「ない」ものばかりを並べ立てていた。
自分を責め立てるばかりで、窮屈だし、胸が苦しくなっていた。
そしてまた同じような場面で、思い返すとあったはずの「えっ?」を無視している。

今日は、わたしがわたしの「えっ?」に気づく!という設定をしてみる。「えっ?」という自分の声がはっきりと聞こえているイメージだ。
未来に「点」を置いているようで楽しい。
結果はそのときがくればわかる。この方法が失敗だったと思ったら、また違う方法を思いつくだろう。


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