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季語「胡瓜」を詠んだ句から一句

胡瓜もみ蛙の匂ひしてあはれ   川端茅舍

 「胡瓜で指紋を変えた」というと「胡瓜でどうやって指紋が変わるのだ。俺もやってみたい」と興味を持つ指紋に不都合がある方がいるかもしれません。でも、これは本当にそうなのです。
 小学生の頃どうしたわけか私は胡瓜が好物で、よく台所にいっては胡瓜を真二つに割って味噌を塗って齧っていました。日向の匂いが混じる青臭さとほろ苦さと味噌が良く合って子どもながらに「旨い」と思っていたのですね(笑)。
 ところがある日、研ぎあげた包丁で俎板を使わずに胡瓜を割ったところばっさりと人差指を切ってしまいました。子どもの指にしては深手で、手拭いを真っ赤に染めながら母親に引っ張られて外科に走りこんだ記憶があります。
 今見てもずれて縫われたせいか指先の指紋がくっきりと分断されているのです。思えば下手な医者だったのかもしれません(笑)。いろいろ忘れっぽいのですが、こう成り行きがはっきりしていると「胡瓜といえば指紋が変わる」と断定するほど、しっかり記憶に残っています。
 茅舎はこの句で、私が「胡瓜といえば指紋が変わる」と断定するのと同様に「胡瓜は蛙の匂いがする」と断定しています。俳句は断定した者勝ちの文芸ですが、あまりに断定の納得性を外すと相手にされません。この辺りが難しいところ。
 この句に出会ったとき、小さな雨蛙を捕まえたとき、いきなり大きな牛蛙に出現されたとき、食用蛙の太腿の唐揚げを食べたときなど記憶をたどっても、私の場合、匂いにたどり着かないのです。
 しかも茅舎は「あわれなり」つまり「感慨深いな」とか「情緒があるな」などと言っているわけです。蛙に親しみを感じていたのでなければ出てこない言葉ですね。画家をめざし京都で修行した経験もあるので、日本画の画題にもよくある蛙は親しい生き物だったのでしょう。
 なんとなく芥川龍之介の句、青蛙はペンキを塗立てのようで「あわれ」と詠んだ「青蛙おのれもペンキぬりたてか」の句を意識しているようです。しかも画家をめざした茅舎が嗅覚、文学者の龍之介が視覚で蛙を詠んだところが面白いではないですか。(初出「かいぶつ句会116号」を改稿)




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