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きんぎょのばあちゃん

わたしに命をつなげてくれたひとにいま、リミットがせまってきている。



19歳になったまさに今日、生物としての輪廻について考える機会が降ってきたことにはなにか意味があるんだろう。

わたしに結婚のチャンスが巡ってくるかどうかはわからない。子どもを授かって産み育てるようになるかどうかも、まだわからない。

時は2024年、1950年とは違い、女性は結婚するしない・産む産まないの選択がしやすくなった。
今なお過渡期であり、心無い非難やプレッシャーをかけられることも多々あるが、道幅は少し広がった。

大正に生まれ、戦時中に青春を過ごし、結婚して家庭に入った曾祖母。
その血、その細胞が祖母へ、父へ、そしてわたしへ。少しづつ変化しながら脈々と引き継がれている。
引き継がれて生き続けるけれど、実際にその時代を見た、感じた、生きたひとが亡くなってしまうというのは大きな喪失であるとおもう。



いまや誰も定住していないあのおうち。かつてちりめん織をしていた土間、機械の名残。
お祭りになると普段は遠くに住んでいる大叔母ちゃんやはとこたちがみんな集まって、お手製のばら寿司をつまみながら大人たちはお酒を囲む、あの大きな板間。

我が家のは桜でんぶじゃなくてさば缶のそぼろなんだよなあ。短冊切りのかまぼこに錦糸卵。
そして、おじいちゃんのお酒はいつも、徳利に入った熱燗だった。



いまはもう去ってしまったひともみな、必ずいちどは集ったあのおうち。

ばあちゃんが死ぬとき、ひとつの歴史がその更新をやめ、かたちが纏まる。
それで、わたしの細胞のひとつも、死ぬ。



欠けたところにはまたすぐにあたらしい細胞がうまれ、pieceがはまり、歴史がはじまっていく。

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