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デジタルはリアルを凌駕するのだろうか?



 2019年から続き、2023年に一応の収束を見せた新型コロナウイルスの副産物には、様々なものがあったようだ。菌への抗体は勿論、生活習慣、労働環境などなど。改めて人は他人との繋がりの中で自身を維持しているのだなぁと感じられた。
その環境下で記録のデジタル化と言う過去の案が、再び脚光を浴びる事となった。
 単に紙媒体から電子媒体に挿げ替えるだけであれば、恐らくはさほどの問題はないであったはずだ。私が大いに危惧するのは、マルチメディアと言われる表現方式が採用されている点だ。つまり実物と寸分違わぬデータを提供し、あまつさえ手で触れた時の感覚まで味わえる所まで後一歩と言うところに、今いる事だ。

デジタルとリアルの比較は、昨今よく取りたざされているAIと人間の知能の比較にも似て、認識のシンギュラリティという懸念も、今までの常識を覆し実際に見るよりもデジタルの方が好き、という世代が遠からず生まれてくると言う予測に基づくものだ。
このように提供される現実というものが、デジタルデータや環境に代替えされ、しかもデジタルの方を好む・信じる世代が増えてくれば・・・・。
リアルに見える映像が、リアルを凌駕する時代が本当に来るのかは今でも疑問ではある。

しかし実体験が空想をうわ回ってきた背景には、その再現性の低さと、現実感が少なかったことも一つの要因であったはずだが、これがリアルすぎる(随意性)を伴い、私たちの前に現出した時にその時代の人には一体どのように考えられるのかを想像すると、大胆な意識改革すらありうると思えてしまう。

即ち真実に近い意味で、仮想現実が現実を超える時代が来るかもしれないのだ。今風に言うところの“中の人“は実在して、その見た目はリアルの見た目とは違い、恐らくはその人の望むその時々の外観を纏い、己の主観を語る。その言葉に共感するものたちが精神的な集団を形成し、社会のようなものが仮想現実の中でも形作られてゆく。
 その後は恐らく左翼右翼といった現実世界での思想がそのまま持ち込まれ、しばらくの間は同じような動きを見せることだろう。しかし、だ、現実世界と仮想世界の違いというものがこの辺りから明確になってくると予想している。
同時通訳の機能が充実し、言語の壁がひとまず取り除かれる。次に問題となってくるのが宗教観の壁である。この問題が新しい世界観(仮想現実)の中で解消される可能性すらある。つまり一つの面では宗教的な思想には干渉しないというガードラインが実装されること。もう一つの可能性としてはAIが宗教的な思想を理解した上で、翻訳機能を持つことだ。宗教的なタブーを理解した上での翻訳、これは画期的な発明になると同時にバベル以前の世界への回帰という何とも壮大な世界観を生み出すこととなる。
今の所私の妄想の産物ではあるが、このプロジェクトが実現してほしいと切に望む。
 そのことがきっかけで真の相互理解というものが、他民族の間で進むのではないかと期待している。

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