小説 (仮)被災者になるということ~能登半島地震より 第4話

1月4日

朝は6時くらいに起きた。
眠れていないが、緊張で起きてしまう。

7時くらいに保健師さんがきて、みんなの体調を聞いてまわった。
母が吐き気と腹痛がするといったら、後で薬をもらえた。
保健室には午前中、医師が滞在するとのことだった。
放送があって、8時に停電をすると言われた。

弟の家に泊まっていた父がランチルームに来た。
母が歯ブラシを持ってきたいと言うと
父はそんなことはどうでもいいと言う。
父が仮設住宅を建てる場所がないと聞いたと言うと
母はそんなことを悩んでも仕方がないと言う。
地震前からそうなのだが、話していると意見が合わず
けんかになってしまうのだ。
だんだんエスカレートしてきたので、
二人とも控えめにして、ときつく言ってしまった。
二人は目をそらして黙った。

船で救援物資が来たが、港が隆起して入れないというニュースを
Dさんの奥さんから聞いた。
普段から能登は陸の孤島といわれるほどアクセスが悪い。
能登空港ができてからは多少よくなったけれど。
現在、道路は寸断され、船も来れず、まさに陸の孤島となった。

9時くらいに電気が再開した。
朝ご飯に透明のパックに入った炊き込みごはんが配られた。
キノコの炊き込みご飯だった。
夫も息子も苦手なのだが、体育館に見に行ったら黙って食べていた。

ランチルームでは電気湯沸かしポットを持ってきて、
カップ麺を食べている人がいた。
仕切りも何もない状況で、よく食べられるなと思った。
私だったら周りに気を遣って、とても食べられない。
カセットコンロを使い始めた人もいた。

近所で黙って動画を取っていく不審者がいたとかで
避難所でも気をつけるようにとボランティアの人が注意喚起していった。
SNSにアップするのだろう。

昼ご飯の配給はバナナ、おかし、豚汁だった。
豚汁は小さな使い捨て容器で普段食べている味噌汁よりも少ない。
スプーンが足りないので再使用するようにとのことだった。
このときは紙コップも再使用だった。
名前を書いて使っていた。
本当はどっちも再使用なんてしたくない。

夫と息子が家にいき、私はまた体育館で留守番をすることになった。
体育館の私たちの座っているところが真ん中あたりで、通り道になっていて砂がたまってくる。
運動場が駐車スペースになっていて、その砂が靴についてくるのだ。
箒とちりとりを探して持ってきて、自分たちのところから入口まで掃いた。
座っている横を人がひっきりなしに通るのもうんざりする。

おならがしたくなり、布団にくるまって、音をたてないようにそっとする。
ほぼ24時間避難所にいるのだから、わざわざそのたびにプールのトイレに行くわけにいかない。
そうでもしないと体がもたない。

近くには同級生Kくんの家族がいて
(この時Kくんは自宅に片づけに行っていた)
話していると母がやってきて、Kくんの両親と話す。
家の具合や道の具合なんかのことだ。
K君の家族の隣には、Nさんという人がいて、消防団の団長をしているそうだ。
消防団の人と電話をしていた。
Kくんの家の近くには湧き水があって、たくさんの人が水を汲みに来ていると言っていた。
小学校から歩いて数分の場所にも湧き水があって、図工の時間に
写生にいったことがあった。
小さなお地蔵様があるのだ。
そこにも人が来ているだろうか。
話が終わってしまうと、私は寝てしまった。
そうしているうちに二人が帰ってきた。

放送がかかる。
金沢に向かう人がいたら、同乗させてほしい人がいるとのことだった。
行きたくても、車がなければ、バスも何も動いていない。
ただ金沢に行くにも、普段なら2時間ほどなのに、7、8時間かかるという話だった。
通れる道が限られている上に、その道も地割れ、段差などで、スピードが出せないのだ。

今日は息子と夫が弟の家にいき、カップ麺を食べてきた。
私は配給の雑炊を食べた。
家から携帯用のイヤホンを持ってきたので、音楽を聴いたが、
耳が痛くなってあまり長い時間は聴けなかった。

また放送がかかる。
節電のお願いで、電気の使用は携帯の充電だけにしてくださいとのことだった。
湯沸かしポットが使えないことになった。
外には高圧発電機車が停まっていた。
避難所の停電が解消されたのではなくて発電機車の電気を使っているのだった。

夜に犬がないて、私も祖母も目が覚めたけど、寝ぼけてはいなかった。
トイレに2回祖母を連れて行った。


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