アートに関する覚書10.線と面

線的な絵画がある。対象を捉える時の平板さが立ち現れてくる技法。若冲や村上隆に連なる現代日本美術で流行している系譜。

他方で、面的な絵画。伝統的な西洋美術のデッサンなどで学ぶ技法。レオナルド·ダ·ヴィンチなどに代表されるルネサンスの画家達。

一度、この雑な分類に基づいて考えてみる。

アンドレ·ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を読んでみると、言語はあらゆる要素を捨象して、線的な形態を取るようになっていったという話がある。この話を支持線にすると、両者の違いが際立つかもしれない。

線で描くというのは、思い切りが必要になる。真っ白な画面に、一刀目を投じることが最も神経を使う。そして、この一刀目が線であった場合、その後のデッサンが全く変化していく。線は、あらゆる要素を捨象していく。また、その本数が少なければ少ない程に、より単純で抽象化された画面を構成していかなければならない。

こうした線的な技法に追随していくようになった時、その果てで言語偏重な美術観が形成されていったと言えないか。抽象化された概念は、言語による説明を必要としていて、そう考えると日本美術は、弁舌だと言えるのかもしれない。

面的な絵画は、良くも悪くも対象としての事物が持つ雑多な要素をできうる限り捨象せずに描いてしまう。その為に、事物と向き合わざるを得ない時間が発生する。右から、左から、季節や場所における光の当たり具合など種々雑多な要素を捉えなければならない。一刀目を入れる前にも、先ずは空間を捉えることが必要だと言える。

空間を考慮するということは、あらゆる概念が紋切り型として提示されていても、一度ゆっくり止まって吟味することを要するのではないか。古代から既に哲学による言語思考が、確固たる地位を持っていた西洋。そうした言語に対して早いうちから乗り気ではなくなってきて、詩や絵画を描くようになったのかもしれない。日本の美術観からみれば早熟といえるかもしれない。

ところで、美術は感覚で理解するのだとする説が一般には広く流布している。線か面か。そのどちらが感覚的かということに限ってみると、実際は後者の方なのかもしれない。

ある意味で現代美術、特に日本ではデュシャンを筆頭にした西洋の現代美術に追随せんと言語や文脈を破壊しようとしてきた。しかし、それは寧ろ言語と文脈の恩恵を大いに授かった線的な思考の系譜を多分に含んでいると言えるかもしれない。

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