アートに関する覚書6.芸と日常と

 私にとって創作への態度は、自身の生業から遠いようで近いものから学べるのだと思う。創作の源泉も絵画や彫刻といった伝統的なものに限らない。寧ろ、"正統なアート"でないと見なされる世界の中にこそ、そのヒントが多く存在している。

 「面白いか、面白くないか」、「客が笑ってくれたかどうか」という単純明快さ。芸人の世界にある本来の核の部分。
 けれども、その周囲には色々なものが付されている。性別、年齢、肩書き、おべっかの上手さ。それら全てはあくまでも核を彩る飾り程度にしかならない。変えようのない要素であっても、多くの人がその"飾り"に目を奪われて、その中身を見ようとしていない。いつしかその"飾り"のためにネタを作り、"飾り"を求め続けようとしたりするようになる。
 世間がアートと称している世界も結局は同じだ。コンセプトがどれだけしっかりしていても、作品を作る人が如何に口が達者だったり、華やかな経歴をしていても、それはあくまでも"飾り"にすぎない。アートも「自分に素直になれたか」、「この世に生きた証を残せたか」どうかといった単純な世界でしかない。

 そんな己の確立された作品世界をある日叩き付けたとしても、変わらない日常が翌日にはやってくる。移ろいやすい芸の世界。今日ウケていたネタも、明日ウケているかどうかはわからない。
 作品も同じで、昨日、今日で良し悪しが逆転していたり、誰かが直ぐに目をとめて素晴らしいと言ってくれる訳ではない。
 足掻き、踠き、傷だらけになっても時は過ぎる。変わらないそのままの世界は続く。それでも作り続けるかどうか。否、作らざるを得ないかどうか。"飾り"を生み出す手段としての創作ならやる必要はないし、有限な時間を無駄にしている。

 本当のプロというものの凄さはこうした時間の積み重ねのなかで、場数を踏み、創作し続けなければ生きられない人達なのだと思う。洗練された人ほどとても単純で明快だ。芸能の世界であっても、芸術作品の世界であっても。

 


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