見出し画像

デカルト ☆119

昨日、哲学の科目を終わらせてしまった。哲学は2単位なのでもともとそんなにボリュームはないのだが、あっという間に終わったと感じたのだから、結局は面白かったという事だろうか?

面白いけど、難しい、何も分からない。もう少し勉強してテストを受ければ、多分合格するだろうけど、それはあんまり意味はない。

哲学は勉強すればする程分からなくなるというパラドックスみたいな世界なのである。

古代ギリシアのソクラテスは「自分は何も知らない」と言って真理の探求をし、その系譜はプラトン、アリストテレスへと伝わったけれども、

キリスト教が出て広がると、真理とは神の事一択であり、真理の探求も神を探求する事にすり変わってしまったから、哲学の方向が全部そっちへ流れてしまった(スコラスティック哲学)。

その状態が何世紀も続いた後に、やっと登場するのがデカルトなのである。彼は真理=神の探求の流れを、人間への、自己への探求に変えてしまった。

近代哲学はデカルトから始まるのである。

デカルトは大天才なので、ありとあらゆる学問を吸収するが、どれもこれも気に食わない、突っ込みどころばかり発見してしまい、全てを疑ってしまう。こんなの信じられるかー!!

唯一、数学はなんとか信じられるので、数学的思考法で物事を観るようになる。

真理とは神であるという時代に、全てのものを疑う、どんな権威も蹴散らす、ただただ真理のみを追求し続けた彼の姿勢は尊いのである。

昔の人だから間違えも沢山あっただろが、彼の真理のみを追求する姿勢があったればこそ、その間違えも発見され、追求され、さらに哲学は研ぎ澄まされて、科学も発展したのである。

哲学者の歴史は、たぶん、デカルトに限らず、誰であろうと名を残したくらいの人なら、

ある考えを追求して、追求して、追求して、追求し尽くした極限まで行ってしまった人達の記録なのだろう。だから凡人がその考えを聞いてもちょっと意味不明、理解出来ない。

哲学は全てを疑い、常識に囚われない。そのような姿も凡人には理解不能、「この人阿呆なの?」と思ってしまうかも知れないが、そのような型破りも人類には必要だったのだろう、多分。

哲学の講師の先生はヘーゲルを長らく研究されているそうだが、未だに「分からない」と言っている。

そんな学問お手上げだ。

けれども、哲学とは「何も知らない」から出発した学問なのだから、「分からない、知らない」は少しも恥にはならない。

「俺、ヘーゲルについては知ってるんだぜ」なんて自慢してる人が近くに居たら、その人の事は疑ってみた方が良いかも知れない。

哲学は面白くて、難しいのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?