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3.11帰宅困難者になった私の記録(2024/03/11)

 2011年3月11日、あれから13年。当時、東京で働いていて帰宅困難者となった私の体験を記録してみたいと思います。少し長い(約4,000字)ですが、よろしければお付き合いください。

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 あの日、私は東京都23区内のオフィスビルで働いていました。地震のあった時刻、社内の別支店の人と電話していたことを覚えています。揺れは長めに感じたのですが、割と新しくて丈夫なビルだったせいか、恐怖を感じるレベルではありませんでした。

 しかし、通話の相手はちょっと焦っていて、電話の途中でしたが、「いったん切ります!」と言われ、通話終了。電話を切ったあと、しばらくそのまま仕事を続けようとしましたが、固定電話はそこから繋がらなくなり、電話は業務で必要なため、仕事にならなくなりました。

 当時は営業部で働いていたので、上司は営業先などに出払っていました。なんだか社内の様子がざわざわし始めましたが、それなりの規模の会社だったにもかかわらず、危機管理意識が低かった会社(既に退職済み)だったため、そのような場合の指示系統が明瞭ではありませんでした。ゆえに、誰からも何も言われることもなく、その時点で終業時間まで2時間以上ありましたので、勝手に帰るわけにもいかないと思い、来るはずのない上司からの連絡を待ち続けて、ずっとデスクで待機していました。

 そこから1~2時間ほど経過したころでしょうか。隣の部署の役職者から、帰宅しても良いと言われました。ただし、その時点で外部の情報を(自ら取りに行ってなかったというのもありますが)あまり把握していなかったので、「え?電車動いてないの?いつ動くの?」くらいの感覚でした。そうこう言っているうちに、「東京近郊の電車はほとんど運転見合わせのようだから、自宅が近い人同士で営業車に分かれて乗って、帰宅してもよい」ということになりました。私は隣県に住んでいましたので、同じ方面の人と一緒に営業車に乗せてもらいました。

 が、しかし、ここで「事の重大さ」を初めて認識するのです。

 営業車が会社を出発したのは17時過ぎくらいだったかと思いますが、既に道路は遠く先まで視界の範囲はずっとブレーキランプが連なっている状態です。そこから1時間以上たっても、1kmも進んでなかったと思います。歩道も、歩いている人がたくさんいました。結局、車での移動は諦めて会社に戻ることにし、運転手以外は車を降りて徒歩で戻りました。

 そのとき、私はとっさに「この状況がしばらく続くなら食料確保しないといけないかもしれない。」と思いました。会社はオフィスビル群の中にあるため、会社近くのコンビニではこの時点で食料は売り切れているかもしれないと思い、車から降りて会社に戻るまでの間で見つけた小さなスーパーに寄りました。弁当・おにぎり・総菜類は既に売り切れていたと思いますが、菓子パンのようなものや、とりあえずで空腹を満たすゼリー類や固形ブロック食品のようなものは残っていたので、少し買いました。

 会社に戻ると、「もう今夜は帰れない」と決め込んだ人たち(主に中年の男性たち)が、コンビニで買った酒を広げて、会議室で宴会を始めていました(汗)。そういった気分でもない私は、とりあえず自席のPCでインターネットを見ていました。

 当時、まだ私はガラケーを使っていたため、夫や実親とメールで安否確認を取ろうとするも、メールは送受信できない状態が続いていました。携帯電話の通話機能もなかなか繋がらず、「固定電話のほうがつながりやすいかも?」と思って職場の固定電話で何度か電話してみてもつながりませんでした。

 結局、身内で最も早く連絡がつながったのが能登にいた義母で、義母経由で夫が無事ということを知りました。

 実はその日、仕事の後に友達と会う約束をしていて、「もう、今日は会えないね」なんて連絡もしたいところでしたが、もはやそんな連絡を取ること自体が不可能になっていました。

 時間にして19~20時頃だったでしょうか。酒盛りをしている会議室のほうから騒がしい声が聞こえてきました。会議室にはテレビがあり、それを見ていた人たちの声です。当時、今ほどインターネットを上手く使いこなせていなかった私は、自席でPC見ているだけでは全く気付いていなかったのですが、東北では大変なことが起こっていたということを、そのテレビ画面を見に行ったことで初めて知ったのです。

 幸いなことに、自分が居たビルは、電気も水道も通っていました。自宅に帰れなかったものの、それだけでも充分ありがたいことなのかもしれないと気付き始めたのです。窓から隣のオフィスビルをのぞくと、真っ暗です。既に全員他の場所へ移動できたのか、はたまた停電してしまっているのか、全く分かりませんでしたが、先ほど購入した食料を少しずつ大事に食べました。(※後日、この地震を機に、全社員分の非常災害キットが社内に備蓄されるようになりましたが、この時点ではそういったものは用意されていなかったため、本当に自分で備えている人しか食べ物にありつけなかったと思います。)

 夜も深まり、空調は集中管理されているせいか、暖房は切れました。私は最初はデスクで顔を伏せて寝ようとしていましたが、なかなか眠れません。また、自分のデスクの近くに、壮大なイビキをして寝ている人もいたため、なおさら眠れませんでした。
 来客用個室などは既に占有されていて、社内のどこか少しでもマシな環境で眠れないかと、いろいろ探し回りましたが、結局、みんな敬遠したのか、役員室には(役員は誰も社内に残っていなかったため)誰もおらず、時間的にももうこの後だれかが寝る場所を探しに来ることもないだろうというタイミングだったので、役員室の床が少しだけクッション性があったため、床に新聞紙を敷いて寝かせてもらいました。

 窓が開けられないタイプの高層ビルの一室のため、凍えるほど寒いということはありませんでしたが、「寝るための備え」をしていたわけではないので、寝ようとするには寒かったです。また、その日は友達に会うため、少し着飾っていたのもまた運が悪かったです。スカートだから足は寒いし、動きにくい。

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 夜が明けて、もしかしたら少し電車が動くかもしれないという情報があったため、再び自宅方面ごとに分かれて営業車に分乗して帰宅を試みることになりました。前の晩よりは車は流れていました。みんなそこまで家が近い者同士というわけでもなく、車で通りかかったとある駅に、電車が動いている様子が見えたため、運転している社員から「この駅まででも良いですか?」と聞かれたため、そこで降りて、その駅から電車に乗ることになりました。この駅は、私の自宅からは、まだ離れています。

 もちろん電車は混んでいましたが、乗れないことはないくらいだったので、乗り込みました。途中、減速を繰り返しながらも、なんとか進んでくれました。

 何駅か進んだところで、乗り換え路線も乗降客数も多いターミナル駅につきました。私はそこでは降りない予定でしたが、降りる人の流れに押されて、車外に押し出されてしまいました。再び乗り込みたいところでしたが、その駅のホームには溢れんばかりの人が押し寄せていて、その駅から電車に乗りたい人の列は改札の外に及んでいました。そのような状況だったので、その駅で再び乗り込むことができなくなってしまい、途方にくれました。

 このとき、自宅方向が同じ人と一緒に行動していたため、私の他に二人が一緒にいました。話し合った結果、隣の駅まで行けば別の路線も増えるため、「距離も遠くないはずだし、隣の駅まで歩こう」ということになりました。

 健康な状態で、なおかつ知っている道であれば、そんな苦ではない距離だったかもしれません。しかし、3人の中でスマホを持っている人はいなかったですし、地図ももちろん持っていません。前夜から不眠や精神不安定な状態で体力も消耗している3人にとっては、道が分からない中で隣の駅へ歩いていくというのは過酷でした。私はブーツを履いていたので、なおさらしんどかったです。

 1時間以上歩いて隣の駅につき、そこから再び電車に乗れました。その後、なんとか無事に家に辿り着きました。地震の翌日の昼頃だったと思います。

 私の場合は自宅には大きな被害はなく、振り返れば「その日、帰れなかっただけ」の被害でした。社内の床で寝たとは言え、トイレと電気(及びPC)が使える場所で極端な寒さに晒されるような場所でもなかったので、良かった方だと思います。後から聞きましたが、外回りしていた最中だった社員は、駅の階段で寒い中で一夜を過ごした人もいたそうです。

 隣県に住んでいても、道が分かる人などは歩いて帰った人もいたようです。また、当時は私には子供は居ませんでしたが、小さい子を預けて共働きしているような家庭の人は、頼れる実家がよほど近い人を除いては、何時間もかけて歩いて帰宅した人もいたそうです。

 その後、自分に子供が生まれて保育園に預けるようになってから、園から「あのときは最後のお迎えの保護者がくるまで、職員は園に寝泊まりして一緒に待っていた」という話を聞きました。それでも、もしあのとき自分に子供がいたら…ということを考えるだけで恐ろしくなり、その後、子供が生まれてから、その会社は退職するに至りました。

 このような思いから、子供がある程度大きくなるまでは自宅近くで働きたいと強く考え、その後はずっと「最悪は徒歩でも帰れる」圏内で仕事をしてきています。

 昨今、他の方のnoteを拝見したりしていて、ご自身の自宅が3.11の津波で被害を受けられたり、また、自分の知人の実家が津波の被害を受けられていたことを知り、自分の経験などは被害という被害でもないと改めて思います。

 自分は、自分自身の経験から感じたり考えたことを通して、現在の行動指針(職選び)となっており、ここに記させていただきました。長くなりましたが、最後までお付き合いくださりありがとうございました。


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