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noteを始めるあたり、雑記 音楽を学習するということ、言語学習との類似性について

こんばんは。コウジです。
クラシック音楽やジャズ、民族音楽等が大好きな社会人です。

近々仕事関係で記事を書く業務を請け負うことになりそうです。しかし、私はこれまでネット記事を公開するという経験がありません。

好きなネット記事のライターはいて、読むことは好きです。X(Twitter)を中心に、日々の雑記を文章として放流することも日常的です。しかし、ネット記事を書くとなると、書くことはあったとして面倒臭さが勝って何もしない、という人は私だけではないでしょう。

そこで、この機会に手軽そうな媒体であるnoteを使い、ネット記事を公開する、という事を始めてみようと思います。

今後の記事投稿の方針について

1.
日々の雑感を気ままに投稿する、というあって無いに等しい方針で投稿します。収益化などは当然視野には入れていません。ですので面白さを期待する方にはすみません。むしろ自分がアウトプットをすることで思考を整理する、そのついでにネット上に放流する、という極めて自分本位なものであることをご了承ください。

2.
最初の自己紹介でも述べましたが、私はクラシック音楽をはじめ、音楽が大好きです。ですので投稿する内容も音楽に関わることが中心になりそうです。これまでに何を専門にしてきたか、仕事はどういった内容なのか、といったことはどこまで公開するものなのか、未だ分別がつかないところですので今後考えていこうかと思います。

3.
練習用アカウントという側面もあります。そもそもこの記事を書こうと思った動機も仕事です。たまに本当に読んで何のためにもならないものが上がるかもしれません。ご了承ください。

以上の3つを、ひとまず記事投稿の方針として掲げようと思います。


音楽を学習するということ、言語学習との類似性について

さて、せっかく記事を投稿し、ここまでお読みいただいた方に何も提供しないのはいささか心苦しいものがあるので、今日は上記のことについて考えてみようと思います。

音楽を学習する、と聞いたとき、どのような様子を想像するでしょうか。
ピアノ教室でモーツァルトを練習している様子でしょうか。高校の吹奏楽部で、コンクールに向け楽器の練習をしている様子でしょうか。音楽大学のような専門機関で座学を受ける様子、或いは独学でギターを練習する様子というのもあるかもしれません。

これらすべて、音楽を学習する行為の一つです。しかし音楽を学習するという事全体を網羅できているとは言い難いでしょう。

また、音楽史の学習、楽譜の読み方の学習など、上記のようなパフォーマンス練習ではない、座学中心のものもあります。こうした内容は、人によっては、音楽学習の本質ではないと考えるかもしれません。

音楽を学習するということすべてを網羅し整理することは困難です。ですが、ここでは敢えて「音楽と自由自在に関わることができるようになること」と定義してみましょう。
これはつまり、思った通りに楽器が弾けること、音楽にまつわる知識を使いこなせること、分析的に音楽を聴けること、自分のイメージ通りに即興演奏や作曲ができること等、全てのことにおいて「自由自在」にできることです。

ひとまずこの定義で、あらゆる音楽学習が目指すところを示せたのではないでしょうか。こうして改めてあらゆる音楽学習を挙げてみると、あることに気が付きます。それは、「パフォーマンス練習以外にも、あらゆる活動がある」ということです。
音楽の学習というと、パッとイメージされるのは楽器や歌の練習でしょう。なぜなら、それが分かりやすく身近な、「音楽をする」ということだからです。
しかし実際には、聴くことや作ることなども含まれるわけです。

文芸と比較してみる

ところで、音楽は芸術の一分野だと言われています。
Wikipediaの「芸術」のページによると、その分類には「文芸」「美術」「音楽」というものがあり、それらの複合型や派生型があるようです。

今あげた「文芸」「美術」「音楽」は、私たち人間が知覚する方法によって言い換えるならば、「言語」「視覚」「聴覚」と言えます(「言語」は視覚
も聴覚も含むだろ!という突っ込みもありそうですが…)。

ここで、「文芸」に注目してみましょう。言語芸術、詩や小説が含まれます。なぜ文芸に注目するのかというと、音楽と同じく線状性を持つからです。

文芸は言語芸術である以上、その言語を理解している必要があります。例えばフランス語の詩を読むとして、フランス語を理解できない状況を想像してみてください。アルファベットの並びや発音による美しさを味わうことは可能かもしれませんが、肝心の意味が理解できなければ、その詩を理解しているとは言えないでしょう。
音楽もこれと同じことが言えます。例えば、長三和音と短三和音の響きは、「明るい」「暗い」と形容されます。しかし、弾いている音の強さや高さによって「明るい」や「暗い」といった印象は容易に変化します。それでもなお、強さや高さといった要素を除き、和音の響きとして「明るい」「暗い」が存在します。このような和音の響きの違いを感じ取れずして、その曲の雰囲気を味わっていると果たして言えるでしょうか。

文芸が言語を用いた芸術である以上、その言語の特性も大きな影響を受けます。例えば欧米詩は、欧米言語にみられるリズムアクセントが重要だと言われます。各行の末に強いアクセントをおくか、そうでないか、という事が重要なのだそうです。
一方、日本語の場合、欧米言語のようなあからさまなアクセントの違いは少ないでしょう。日本語詞は、俳句や短歌にみられるような、拍数をどう整えるか、という視点が伝統的に重要なのだそうです。

音楽の場合も、聴こうとしている音楽が西洋音楽なのか、日本の伝統音楽なのか、或いはどこかの民族音楽なのかで、「文法」が全く異なり、聴くべき「美しさ」が異なります。単に地域的なことではありません。どのような「文法」を、つまり、音楽理論のような前提条件を有しているのかが重要なのです。その意味で、日本を含む世界の音楽は西洋音楽がかなり支配的な影響力を持っています。

従って、音楽をよりよく味わうためには、文芸を学ぶ前提としてその言語が分かっていなければならないように、音楽の前提となる基礎的な部分が分かっていなければならないのです。
アルファベットや英単語を知らずに英語詩を学べるでしょうか?音楽を学ぶためには、基礎的な部分が固まっていなければならないのです。

言語を学ぶことと音楽を学ぶこと

それでは、言語を学ぶ際にはどのような活動があるのでしょうか。小学校の英語科における学習指導要領では、その活動を「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つに分類しています。
これは実に美しい分類だと感じます。なぜなら、「聞く」「話す」は聴覚刺激(発音)をインプット・アウトプットする行為であり、「読む」「書く」は視覚刺激(文字)をインプット・アウトプットする行為だからです。

人間、どのような知的活動であっても、インプットするだけではなくアウトプットすることで身に付く側面があります。皆さんも、聞いたり読んだりするだけではなく、人に話したり、書き出してみたりすることで記憶が定着した、といった経験があるのではないでしょうか。

それが言語においては、発音という聴覚刺激と、文字という視覚刺激の側面があるため、このような分類になるのでしょう。これらをバランスよく行うことが、言語学習においては重要です。
余談ですが、宇宙人の言語でもし嗅覚を活用するものがあれば、嗅覚をインプット・アウトプットする活動が有効な学習なのでしょう。

この分類をそのまま音楽に当てはめてみましょう。
まず「聞く」は、音楽鑑賞などがそれにあたるでしょう。耳コピをする際に聴いた音を記憶し、分析する行為も含まれます。
次に「話す」は、歌や楽器によって音楽を音としてアウトプットする行為です。要するに歌唱や演奏です。
「読む」は、楽譜を読むことや、そこから分析することが含まれます。
「書く」は、楽譜を書き起こすこと、作曲などが含まれます。

これらをバランスよく行うことこそが、音楽の基礎力を有機的に、着実に積み上げる近道なのではないでしょうか。言語学習と同じように。

ここで念のため、「読む」「書く」における楽譜の扱いについて触れておきましょう。現在広く流通している西洋音楽は所謂五線譜と呼ばれる楽譜システムを採用していますが、例えば日本の伝統音楽などでは、楽譜はあくまで補助的な役割に過ぎず、曲を習得する際は師匠からの口伝が主流です。西洋音楽以外の文脈では、実は楽譜はもはや存在しないと言ってもいいものが珍しくありません。
これは、言語で言うならば文字を介さずにコミュニケーションをとる、という事です。実は文字を持たない言語というのも存在しており、言語の発生および赤ちゃんの言語習得を鑑みても、言語の本質は文字よりも発音なのではないかと思います。
しかし、だからと言って言語学習において文字が必要ないかと言えばそんなことは無いでしょう。少なくとも、文字によって受けられる恩恵は多大なものです。
従って、音楽の学習においても、楽譜を学習することは非常に重要だと考えます。五線譜が普及した背景には、限られた人しか歌えなかった聖歌を、民衆に広めようとしたプロテスタントの活動が大きいようです。日本においても基本師匠からの口伝であった音楽の伝承は、明治時代以降様々な楽譜が考案され、民主化されてきました。楽譜というのは、音楽を限られた才能と機会から解放し、民主化するツールです。とりわけ五線譜は、グローバルスタンダードと言っても過言ではない西洋音楽の文法の学習に非常に役立ちます。

まとめ

今日は、音楽を学習するという事について、まずパフォーマンスの練習の他にも様々な活動がある、ということ、そして言語学習との比較を通して、音楽学習に当てはめて考えてみました。

演奏する、作曲する、鑑賞する、分析する、即興する、耳コピする…様々な音楽活動がありますが、これらを一度、「聞く」「話す」「読む」「書く」の枠組みに当てはめて考えてみてください。どのようなプロセスを経ている活動なのか、客観的な視点で考えることができると思います。

蛇足になりますが、今回は最終的に音楽の基礎力、という事について考えてみました。もちろんこの他にも、音楽史の学習や、音楽の美学を深めることなど、様々な活動があることは重々承知です。
しかし、そうした活動の根底には、音楽の確かな基礎力が必要です。美しい花が咲くためには地味な枝が必要なのです。
昨今、メディアや教育現場では、音楽のキラキラとした側面ばかりが取り上げられ、「好き」であることや「楽しい」と思えることさえ満たされていれば、十分だとする風潮があるように感じます。勿論それは否定しませんが、「好き」や「楽しい」が伸びるためには、基礎力が必要であるという歴然たる事実を今一度、認識したいところです。決して「才能」や「機会」に依存せず、全ての人にとって音楽が民主化されるために。





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