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ありがとう!洗濯屋のお父ちゃん

はじめに

私は、クリーニング屋の娘と結婚した。
家内の実家は、クリーニング屋だった。
お父ちゃん(義父)は、お母ちゃん(義母)とお父ちゃんの実の弟と三人で長きにわたって、クリーニング屋を営んでいた。
クリーニング屋は、高齢化と長年使ってきた設備が老朽化したため、平成22年に廃業した。
そして、お父ちゃんは、家族のためにいっぱい働いて、令和元年11月に他界した。
享年、88歳。
お母ちゃんもお父ちゃんの後を追いかけるように、令和4年5月に他界した。
享年92歳。
お父ちゃんとお母ちゃんの敬意に表して、この話を贈りたいと思う。

お父ちゃんの生い立ち

お父ちゃんは、広島で昭和7年7月に生まれた。
7人兄弟の5番目で、家業は広島の山奥で農業と林業を営んでいた。
盆地のため、夏は暑く、冬は積雪があるほど寒い地域で父親と兄弟たちと仕事をしていた。
その頃の時代なので、上下関係は厳しかった。
父親や兄の命令は絶対的なものだった。
仕事で失敗すると父親や兄から虐待を受けていた。
父親や兄からすれば、憂さ晴らしに近かった。
お父ちゃんは、仕事の辛さは我慢できるが、虐待は我慢出来なかった。
しかし、山奥なので、農業や林業以外に選択肢はなかった。
お父ちゃんは、現状の暮らしに満足することなく、苦痛の日々を過ごしていた。
そんなある日、人生を大きく変える知らせが舞い込んで来た。

人生を変えた知らせ

親戚の叔父さんから、東京で洗濯屋の店員を募集している知らせであった。
当時、住んでいる村には洗濯屋は無かったので、仕事の内容すら知らなかった。
この知らせは、母親がこっそりお父ちゃんだけに教えてくれた。
お父ちゃんは、迷わずに母親に「東京に行って、洗濯屋の店員になる」と言った。
お父ちゃんは、1日も早くこの山奥と兄達からの虐待から逃避したかったのだ。
母親は、お父ちゃんが東京に行くことを、父親には内緒にしていた。
母親は、日頃のお父ちゃんのことを不憫に思っていた。
後で、父親に知れたら母親に酷い仕打ちがあるかもしれない。
母親には申し訳ないが、このチャンスを逃したら、この山奥からは逃げ出せない。
お父ちゃんは、母親の愛情を初めて知った時だった。
昭和27年頃の東京といえば、戦後復興の時期である。
当時は、新幹線は未だ開通していなかったし、列車も現在のような利便性は無かった。
広島の山奥から、どうやって東京に行くのか?
その洗濯屋まで、どうやって辿り着くのか?
お父ちゃんは、期待より不安で押し潰れそうになった。
しかし、山奥から出たい、兄達からの虐待から逃れたい。
この一心で、東京行きを決断した。
親戚の叔父さんが何故、この知らせを母親に持ってきたのか?
理由は、謎である。

運命の日

東京への出発の朝が来た。
寒い朝だった。積雪が、1メートルあった。
ボストンバッグに全財産を入れて、バスで最寄りの駅まで行く予定であったが、積雪のためバスは来なかった。
仕方なく、積雪の中、最寄りの駅まで10キロの道のりを歩いた。
東京行きの気持ちは、積雪よりも深かった。
駅に到着した時間が、予定より大幅に遅くれた。
仕方なく、予定を変更して夜行列車でを乗り継いで大阪~名古屋~東京に向かうことになった。
後で、知ったことだが、お父ちゃんが東京に行くことを父親も知っていたそうだ。
東京までの、長い道のりが始まった。

東京での生活が始まる

二日かけて、東京駅に到着した。
改札口で、洗濯屋の案内人を探し回った。
口約束の話を信じて、東京までやって来た。
洗濯屋の話は、本当なのか?
もし、騙されていたらどうしよう。
今更、広島へは戻れない。
諦めかけてた時に、お父ちゃんの名前を書いた紙を持った男性が改札前に現れた。
洗濯屋の話は、本当だった。
お父ちゃんは、涙を流して喜んだ。

自己紹介を済ませ、洗濯屋がある目黒まで電車で向かった。
無事に、洗濯屋に辿り着き、住み込みで洗濯屋の仕事が始まった。
待ちに待った、東京での生活。
しかし、叔父さんから聞いていた待遇とは、かけ離れていた。
折角、紹介してくれた叔父さんの立場を考えると、すぐには辞められない。
広島で辛抱してきたから、どこでも辛抱できる。
そう自分に言い聞かせ、一人前にまるまで辛抱しようと決めた。

次は大阪へ、運命の歯車が回り始める

それから1年が過ぎようとした。
大阪にいる姉さんの紹介で、洗濯屋の働き口の話が舞い込んできた。
お父ちゃんは、迷うことなく直ぐに返事をした。
返事をして間もなく、東京の洗濯屋を辞め、大阪に向かった。
大阪の洗濯屋では、一人前になるよう寝る間も惜しんで、働いた。
その後、洗濯屋の大将の紹介でお見合いしてお母ちゃんと結婚した。
広島の山奥から出てきて、5年が過ぎようとしていた。

この5年間で洗濯屋の仕事が、生涯の仕事だと悟った。
そして、広島から末の弟(おっちゃん)を大阪に呼び寄せた。
当時、おっちゃんも結婚して、洗濯屋で働いていた。
お父ちゃん夫婦とおっちゃん夫婦で、洗濯屋を始めることにした。
広島の山奥から出てきて、6年が過ぎようとしていた。

家族と感謝

昭和34年、義兄が誕生した。
当時は、お金が無かったので文化住宅で洗濯屋を始めた。
子供も産まれて、手狭になったので、借地であるが家を購入した。
ここから、本格的に洗濯屋として、お父ちゃん、お母ちゃん、おっちゃんの三人で再スタートした。
お父ちゃんは、社交的なので営業、洗濯物全般を担当。とにかく、洗濯物を出してもらえるように1軒1軒、営業に回った。
おっちゃんは、以前勤めていた洗濯屋でアイロンの経験があるので、カッターシャツなどのアイロン担当。性格は、お父ちゃんと180度違って、寡黙。
お母ちゃんは、経理と食事、その他の雑用担当。
時間が経つにつれて、お父ちゃんとおっちゃんの間もぎくしゃくする場面が増えてきた。
お母ちゃんは、仕方なくお父ちゃんとおっちゃんの板挟みになった。
かわいそうな、お母ちゃん。
板挟みは、クリーニング店を廃業するまで、50年以上続くことになる。

昭和38年、私の家内が誕生する。
その頃は、東京オリンピックの開催、新幹線開通など、高度成長期を迎えていた。
お父ちゃんの営業努力の結果、商売は軌道に乗ってきた。
そして、昭和50年代に入ると、洗濯屋からクリーニング店に転換していった。
ドライクリーニングの設備などを入れ、近代的になり商売繁盛の時期を迎える。
その頃は、家に風呂がなかったので、銭湯に行っていた。
銭湯に行くのは、それなりに楽しかったが、冬場は寒さがこたえた。
そんな矢先、近所に風呂付の新築販売があったので、購入した。
これでようやく、一国一城の主となった。
広島の山奥から出てきて、25年が過ぎようとしていた。
姉さんの紹介が無かったら、今の幸せは無かったであろう。
お父ちゃんは、姉さんに感謝している。

私とお父ちゃん

昭和57年秋、家内と出会い、交際が始まった。
ここから、私が登場する。
同年の冬に、初めて家内の実家である、クリーニング店に行った。
お父ちゃんと、初対面。「ドキドキ!」であった。
職人肌で頑固おやじと聞いていたので、家に入るのが少し怖かった。
しかし、会ってみると気さくで人で、話が好きなサラリーマン風の印象だった。
お母ちゃんは、少し無口なしっかり者の印象だった。
交際も順調に進み、3年が経った。
お父ちゃんとお母ちゃんに結婚の許しをもらうために、挨拶に行った。
さすがの私も緊張していた。
長い沈黙が続いた。
お父ちゃんが見かねて「話があるから来たんやろう?」と助け船を出してくれた。
心の中で、「ありがとう、お父ちゃん!」
思い切って、「娘さんと結婚させてください。」と言えた。
記憶に残っているのは、この言葉だけだった。
お父ちゃんは勿論、承諾してくれた。
ようやく、テンショーン、まっくす!
そして、結納、結婚と順調に進んだ。
結婚に際して、お父ちゃんからアドバイスがあった。
「社宅に入るのも良いが、家賃で住宅ローンが払える。思い切って家を買ったらどうや。」
私たちは、大いに悩んだ。
悩んだ結果、お父ちゃんのアドバイスを受け入れた。
そして、お父ちゃんの紹介で、新築を購入することが出来た。
この選択は、後々の人生を大きく左右する出来事に関係することになる。

再び、人生の歯車が回り始める

昭和62年頃春、私の職場で福島県に転勤の話が持ち上がった。
職場の業務が福島県に移管されるのだ。
転勤があるかもしれない旨を、家内からお父ちゃんに打ち明けた。
お父ちゃんは、酷く落ち込んだ。
こんなお父ちゃんを見たのは初めてだった。
お父ちゃんから転勤が決まったら、就職先を紹介するので、大阪に留まってほしい旨の話があった。
よほど、大阪にいてほしいようだった。
私たち夫婦は、転勤の発表まで落ち込んでいた。
昭和62年の秋、転勤者の発表の日がやって来た。
一人一人、上司と面談を行なった。
いよいよ、私の順番が来た。
結論は、大阪に留まることが出来た。
転勤を逃れた理由として、私は持ち家だったからだ。
その当時、持ち家の転勤は殆ど無かった。
お父ちゃんのアドバイス通り、家を買って良かった。
ありがとう、お父ちゃん!
直ぐに、お父ちゃんに電話した。
電話口で、泣いて喜んでくれた。

昭和63年春、業務引継ぎで、約1か月福島県に出張することにたった。
初めての福島県。仕事の引継ぎは大変だったが、職場の方々が良くしてくれた。その方々とは、今でも年賀状のやり取りをしている。
その節は、大変お世話になりした。

お父ちゃんの趣味

お父ちゃんの話に戻そう。
お父ちゃんは、多趣味であった。
平成に入ると、踊り、お花、カラオケとクリーニングの仕事が終わるとほぼ毎日のように趣味に没頭した。
一番の趣味は、カラオケだった。
家にカラオケセットを購入するくらい大好きであった。
お父ちゃんの十八番は、北島三郎さん、五木ひろしさんだった。
それから、カラオケ同好会の会長を務めたり、盆踊り大会のカラオケの常連になったり、町内で活躍した。

自慢の婿

平成15年頃、私は、会社で管理職に昇進した。
当時は、社会全体が急速にグローバル化にシフトしていった。
その影響で、昇格試験にTOEICのスコアが、550点以上が必須条件になった。
私は、英語が得意ではなかったので、土曜日、日曜日、祝日そして年休を取得して、1日10時間以上勉強した。
3回目の受験で、ようやく550点をクリアした。
約半年かかった。
会社での活躍を紹介した記事が雑誌に、2回掲載された。
お父ちゃんは、雑誌に掲載されたことを自分の息子の事のように喜んでくれた。
嬉しいことに私は「自慢の婿」であった。
私の会社の記事が新聞に掲載されると、切り抜いて私に見せてくれた。
私より、会社のことをよく知っていたし、私の会社の大ファンだった。
私の話は、これくらいで許すことにしよう。(笑)

クリーニング店の廃業

そして、平成20年にクリーニング店を廃業した。
お父ちゃん75歳、お母ちゃん76歳になった。
流石に高齢であることと、ドライクリーニングなどの設備も老朽化してきた。新しい設備を入れても、費用がかかるだけだ。
お母ちゃんは、ようやくお父ちゃんとおっちゃんの板挟みから解放される。
おっちゃんは、まだ働きたかったようだ。
広島の山奥から出て来てから、55年。
長きに亘り、家族のために働いてくれて、本当にありがとう。
お疲れさまでした。

病魔と復活、そしてまた病魔

思い出したくない、平成25年の春が来た。
お父ちゃんが、肺がんと診断された。
家族全員が、悲しみに包まれた。
しかし、当の本人は、至って元気であった。
その後、手術を2回繰り返し、肺がんを克服した。
がんと戦って勝ったのだ!
風邪をひいても、薬を飲まずに根性で治す、お父ちゃん。
がんも根性で克服したか!
恐るべし、お父ちゃんの根性。

平成28年冬、お父ちゃんは、家に帰ってこなかった。
家族は、心配してあちらこちら探した。
その日の深夜、警察署から私の家に電話があった。
警察署で、お父ちゃんを預かっているので、迎えに来てほしい連絡であった。
自転車で出かけたが、帰り道がわからなくなり、保護された。
何故、私に警察署から電話がかかてきたのか?
お父ちゃんは、私の家の電話番号を財布に入れていたようだ。
義兄でなく、私の電話番号。
何故か、嬉しかった。

後日、病院で検査した結果、認知症だった。

その後、義兄の判断でお父ちゃんを施設に入れることになった。
間も無く、お母ちゃんもお父ちゃんと同じ施設に入ることになった。

お父ちゃん安らかに眠る

施設に入ると、徐々に症状は悪化した。
残念なことに、娘である家内のことは、覚えていなかった。
しかし、婿である私のことは覚えていてくれた。
私の名前を呼んでくれた。
だって、自慢の婿だから。

暫くして、お別れの時が来た。
令和元年11月、お父ちゃんは安らかに眠った。

さいごに

お父ちゃんとの思い出
お父ちゃんとの思い出の一つ目は、旅行である。
福井県の三方五湖、岡山県の倉敷、静岡県の富士山、東京スカイツリーなど、色々旅行に行った。
特に、印象深いのは私の実家である山口に行ったことである。
人力車に乗った時の記念写真は、今でもリビングに飾っている。

お父ちゃんとの思い出の二つ目は、腕時計を買いに行ったことだ。
大手の量販店で、「ブルガリ」の腕時計を思い切って買った。
自分へのご褒美だった。
その腕時計は、形見となり、婿である私が引き継ぐことになった。
「ブルガリ」は今でも大切に使っている。
時計をはめるたびにお父ちゃんを思い出す。

お父ちゃんとの思い出の三つ目は、カラオケ喫茶に通ったことだ。
お父ちゃんの大好きなカラオケだ。
カラオケに行くときの、お父ちゃんの顔は幸せそうだった。
私もお父ちゃんに連れられて、カラオケ喫茶に行くようになった。
カラオケ喫茶のママや常連さんから、婿とカラオケに来る客は珍しい、いやいないと言われた。
私が、初めてのようだ。
それを聞いて、お父ちゃんは嬉しそうだった。
お父ちゃんも婿と一緒にカラオケに来ることが自慢だったと思う。
お父ちゃんが好きだった、五木ひろしのカセットテープは、捨てられずに今でも持っている。

追伸
私の家内は、クリーニング屋に勤めている。
パート社員であるが、職場のみんなから頼られている。
お父ちゃんの家業は継げなかったが、遺志は受け継いでいる。
洗濯屋の娘と結婚して良かった。
お父ちゃんと出会えたことに感謝!
お父ちゃん、いつまでも見守っていてな!

#エッセイ部門

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