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note村村史~約束の村

 
 今、私の手元に古ぼけた三葉の写真がある。
 一葉目、大勢の男女がにこやかに和服姿で立ち並ぶその真ん中にいる、縞の荒い袴を着て立派な髭を蓄えた初老の男、彼が能戸村(のとむら)要三。地図にない幻の村、note村の初代村長である。
 二葉目の写真には能戸村の入り口が写っている。村に入る舗装された道路の両側(後ろには畑があってこんもりと作物が生い茂っている)には木製の二本のポールが建てられており、右のポールには白い文字で「この門に入るものは自己と他人の……」左のポールには「生命を尊重しなければならない」と書かれている。
 もう一葉は晩年だろうか。白髪の能戸村要三が湖と桜を借景に、白い着物姿の娘と酒を酌み交わしている写真である。


 明治42年、地元で神童と呼ばれ、雑誌に詩や小説を投稿していた能戸村要三は、親の反対を押しきり単身上京。執筆活動の傍ら文学サロンに出入りし、様々な文化人と交遊を結ぶ。翌明治43年には武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎、有島生馬らと文学雑誌「白樺」を創刊。彼らはこれに因んで白樺派呼ばれ、実篤が白樺派の思想的な支柱となる。
 能戸村要三は武者小路実篤の唱える理想的な調和社会、全世界の人間が自由を楽しみ天命を全うできる理想郷の実現、新しい村運動に共鳴し、大正7年に村落共同体「新しき村」建設に私財を投げうって参加した。
 同じ白樺派である有島武郎は後年北海道ニコセに親から譲り受けた農地を小作人に解放「狩太共生農団」を設立する。また銀河鉄道の夜のカムパネルラのモデルとされる宮沢賢治の友人保阪嘉内は武者小路実篤に心酔。その影響を受けた賢治は岩手県花巻郊外に「羅須地人協会」を設立することになる。


 能戸村要三は「新しき村」で実篤と共に農作業に従事しながら文筆活動を続け、東京帝国新聞に「吾輩は幽霊である」を連載。しかし同村はダム建設により大半が水没することになり、精神的支柱であった実篤もわずか6年で離村したため要三は新たな理想郷の建設を模索するようになる。
 そして昭和14年N県の海沿いの広大な土地を借財して買い取り、有志と共に開墾、家屋を建築すると、クリエーターが自由に創作活動をしながら生活できる理想郷、能戸村の設立を宣言した。
 やがて能戸村要三の理念に共鳴した日本全国の芸術家たち、小説家、随筆家、音楽家、漫画家、画家、詩人、俳人、歌人、写真家、芸人などが続々と能戸村に移住し日本有数の文化村として知られるようになった。
 時は流れ平成の町村合併の際、近隣三つの村と合併し新たに村名をnote村と改称して再スタートすることになる。 


 ここnote村は現在、クリエーターの聖地として多くの者が集う場所となりつつある。大正、昭和、平成を経てこの令和の時代、武者小路実篤が提唱した新しき村運動の理念は能戸村要三が引き継ぎ、note村というクリエーターの理想郷として結実したのだ。
 しかし不思議なことは、これほど有名な村であるのに、地図にはどこにも載ってないということである。

※追記。この村は昔から人魚の目撃事例が多く、武者小路実篤が静養に訪れた際、浜辺で美しい人魚に出逢い、恋をして失恋したという伝承が遺されている。また毎年夏に村人がネコミミを付けて踊るネコミミ村祭りは、天下の奇祭として有名である。現在村長がこの祭りをユネスコ世界無形文化遺産に申請中である。

※この物語はフィクションであり武者小路実篤の新しき村のパロディです。


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