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卑弥呼の墓は何処か? 共立された阿波に

下記において、考古学師匠の仮説を理解しようとしています。



𤰞彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人


『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳

・・・その法や風俗は身分の上下を分けて秩序立っている。それぞれ国名があり、詳しく採録することができた。夷狄の国とはいえ、俎豆(祭りの供物をのせたり盛ったりする器、転じて祭祀を言う)の儀礼がある。中國で禮が失われ、それを四夷に求めたというのは、やはり信ずべき理由があるのだ。それゆえ、その国を選び出し、その異同を示して、これまでの正史が備えていなかったところを補うものとする。

『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳
https://notraitors.com/china/3.htm

𤰞彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人

『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳
https://notraitors.com/china/3.html

『三国志』「魏書」烏丸鮮卑東夷傳倭國条より、

「冢」とは、単に土を盛った程度の墓であって、
高い盛り土のある古墳とは違います。

「徑百餘歩」とは、短里(300歩=1里=76.8m)で考えます。
足底長25.6cmX100歩=25.6m

「徇葬者奴婢百餘人」 とは、男女100余名が取り囲んで葬儀を営んだことと解釈します。 (徇葬と殉葬は区別したい。)


纏向遺跡、ホケノ山古墳につながる阿波の萩原墳墓群



魏志倭人伝の伝える卑弥呼の墓は、弥生終末期萩原1号墓かもしれません?
それより後になる纏向遺跡は、阿波・讃岐から行った人がつくった祭祀遺跡と考えられます。

「萩原墳墓群1983」「萩原2号墓発掘調査報告書2010」徳島県発掘調査報告書によると、


・1号墓・2号墓ともに弥生終末期、前方が小さい前方後円形、神仙思想西王母を想定する西方頭位で埋葬。1号墓円丘部周囲溝が認められる。
・ともに墳丘長26m。短里=76m説で、徑百餘歩25mに相当。1号墓径18m、2号墓径21.1m。
・朱のイオウ同位体比分析では、1号墓+8.66、2号墓+3.10、どちらも国内産でなく中国陝西省産辰砂に相当する。
・1号墓の画文帯同向式神獣鏡(A形式第2段階)は他所出土鏡のような補修痕はなく、大同区出土鏡と同笵の可能性有。
・竪穴式構造の変遷は、2号墓→1号墓→石塚山2号墳→石槨の有るホケノ山古墳に繋がる系譜。1号墓・2号墓は魏志倭人伝の言う「有棺無槨」に相当する。 木槨はあるが石槨は無い。


ホケノ山古墳に繋がる系譜

萩原2号墓発掘調査報告書2010 より




弥生終末期の東瀬戸内連合の盟主は何処?


畿内説はあり得ない

長年、奈良の遺跡調査をされた、関川尚功氏(上牧町教育委員会 文化財専門員・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員)の講演ですが、弥生終末期の奈良盆地に都(邪馬台国)があったとは考えられないと言われています。


考古学的成果より

遡って最近までの古墳調査により、

弥生終末期に吉備・播磨・讃岐・阿波の交流が深かったことが明らかになっており、瀬戸内海を制圧した勢力から共立された倭王の存在、そこからつながる勢力が、後々に平城京遷都したものと考えるのが自然でしょう。

近畿地方で典型的な備讃濃尾型黥面絵画が認められないことは、イレズミに関して吉備地方や濃尾地方と距離を置いていたとみなすべきだろう。近畿地方では弧帯文はわずかに取り入れるものの、黥面に積極的ではない。備讃濃尾型黥面は京都府域に類例はあるものの、大和地域ではまだ検出されていない。

(近畿地方における黥面の消長 設楽博己)
近畿地方における黥面の消長 設楽博己





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