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065.有言実行より不言実行、理論より実践技術にこだわり

 漆細工や螺鈿(らでん)などは言うまでもありませんが、刀剣や根付、帯留め、クシ・かんざし、陶器なども実用的な機能と美しさを求めて生み出された工芸品の一つでしょう。
武器としての日本刀は、実際にいざという時に、強靭さと十分な殺傷能力を発揮できなければ意味がありません。その意味で、切れ味と強さが最も求められた道具です。刀と刀がぶつかった時に、どちらが折れずに機能するか、その強靭さは刀剣としての生命線です。
形としてシンプルでありながら、鍛えた鋼の肌目、刃に現れた特有の文様など、その美しさは息をのむほどです。刀身だけでなく、鞘(さや)や柄(つか)に施された工夫や細工の奥深さもまた同様です。
日本刀は武器です。握る手が滑らないように、ぎざぎざのあるサメの皮を柄に巻くそうです。鮫皮の種類にも色々とあって、装飾的な価値を含めて、最高級のものは日本にはないので、わざわざ南蛮貿易で東南アジア産のものを輸入して使ったと言われています。
単なる芸術品としてではなく、武器としても並はずれた機能を備えた完成品を追求すると、柄に巻き、持ち手が直接触れる素材についても、そんなところまで求めてしまう、そのあくなき行為こそ、日本の伝統技術の真骨頂と言っていいと思います。
芸術と実用性を兼ね備えた工芸品が生まれるためには、そうした気が遠くなるような機能・美への追求があるのです。
刀身の鋼についても同様です。強靭で美しい鋼を作る熱処理や鍛造のプロセスにも、独自の技術上のノウハウがたくさんあります。そうした鋼づくりの刀工・鍛冶職人たちの匠の感性と洗練された技が、受け継がれていく過程で試行錯誤と工夫が加えられ、ブラッシュアップされていきます。
しかし、「鋼」を作り出す技術が、科学として追求されることはありませんでした。あくまでも刀を作るために必要な「強靭な鉄」を造り出し、美しい刀剣として完成させる実務技能に徹しているのです。
アメリカの金属学者で技術史家のC・S・スミスは「日本の刀の仕上げは金属組織学者の卓越した金属芸術である」といい、

「日本人は物理や化学の法則の世界にはほとんど寄与しなかった反面、いい鋼を作り、すばらしい熱処理・加工の技術を展開するというかたちで、経験的な手作りの知恵を古くから生み出してきた」(⑧「江戸の技術思想」(『江戸のメカニズム』収録 たばこと塩の博物館)
 
と書いています。そして、その技術は岐阜県関市、新潟県燕市・三条市、大阪府堺市などの現代の刃物づくりに生かされています。
私たちは、なぜそうなるのか(why)という真理を追究するのではなく、どうすればそうなるのか(How to)ということに関心を持っているようです。これは、封建制度の下で、なぜ?という疑問を封印せざるを得なかった結果なのでしょうか。
確かに、日本人は理学よりも工学、実技・技術を重視する性癖があり、理屈より具体的な行動に重きを置くところがあります。たとえば、前掲の「からくり」(法政大学出版局)では、北陸・金沢の北にある大野港に住む大野弁吉(中村弁吉)というからくり師について、こんな話を紹介しています。
密貿易で北陸の港にも外国から珍しいものが来ると、かれは現物を見せてもらう前に、どんな動きがするものかだけを教えてもらうそうです。それだけを聞いて家に帰る。そして機構を考え、翌日出かけて行って、「それはこんな構造のものではないか」と考えた結果を伝え、実物と合わせてみる、ということをしていたそうです(⑨前掲「からくり」 法政大学出版局)。
つまり、からくり師というのはそんなふうに、頭の中にいろいろな工夫のタネを持っている人たちだったということです。
欧米の人たちは、「有言実行」に高い価値を置いていますが、日本人は逆に、「不言実行」を尊び、理屈が勝る人間を頭でっかちと称して嫌うところがあります。そんなところも原理原則や科学の探求に向かわず、ひたすら実践にのめり込んでいく、匠を生み出す土壌が作られてきた要因かもしれません。

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