見出し画像

023.横浜市開港資料館旧館(旧英国領事館)

≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物017/みなと地区≫
*ジョージアン様式をよく表している外観デザイン。すぐ横にある門番所も同じ意匠で一見の価値がある。
 
 横浜港の大さん橋入り口の交差点に面して建つのが旧英国領事館、いまは横浜市開港資料館です。
 横浜の開港は、嘉永7(1854)年に日米和親条約を締結したことに始まります。前年の嘉永6(1853)年7月、ペリー一行が「四ハイのジョーキセン」でやってきて、アメリカ大統領の親書を持参して幕府に開国をせまります。
 即答できない幕府に、1年後の回答を約束させてその場はいったん引き下がりますが、1年を待たず、翌54年1月に再度やってきて江戸湾奥深くまで侵入し開国を迫ります。幕府の混乱に乗じて開国を迫ろうという狙いです。
イヤなら攻撃するぞ、という脅しをちらつかせながらの再三の要請に、幕府はとうとう断りきれず、横浜の浜辺に上陸を許して、和親条約の交渉を行うことにします。
 日本側は急遽、上陸地の水神社近くに応接所を設け、そこで交渉を行います。

横濱開港資料館前の広場に立つ「日米和親条約締結の地」の碑。この広場には、
当時外国人商人が盛んに売り込みをかけてきた大砲なども置かれています。

 会談は4度に及び、アメリカが下田に総領事をおくこと、アメリカ船の下田・箱館への入港を許可すること、薪・水・食料・石炭の補給を許すこと、互いに漂流民の救助を行うこと・・・などを定めた和親条約を締結します。
 この時の様子は、ペリーに同行してきた画家ハイネによって、上陸の図として描かれていますが、その絵の右端に描かれている玉楠(タブノキ)は、関東大震災で焼けてしまいました。しかし、その根から生えてきた若芽(ひこばえ)が、ここの中庭に植えられて大きく成長し、いまは中庭いっぱいに繁っています。

ハイネが描いたペリー一行の和親条約締結のための上陸の図。
右の木は水神社と植えられていたタブノキ(玉楠)。
関東大震災で焼けてしまったタブノキの根からひこばえが大きくなって、いま、
資料館の中庭を覆っています。ペリー上陸図で右端に茂っている木がこの親木です。

 応接所として使われた場所には、後に、港を作る際に整備され英国領事館が建てられましたが、ここが外人用の居留地の区画整理の基準の一角となりました。
 その後、英国領事館は大正12年の関東大震災で倒壊・焼失。昭和6年に再度、英国領事館として建設されましたが、ここでの領事館業務は昭和47(1969)年に終了。国政の中心となっていた東京・千代田区一番町に大使館を作り業務を移転しました。旧領事館はその後、増改築をへて、昭和56(1981)年には横浜市が買い取り、以来、横浜市の開港資料館の旧館として利用しています。
 
 ■イギリス人の設計による華麗な本格建築
 昭和6年に建てられた英国領事館=横浜開港資料館の旧館は鉄筋コンクリート造り地上3階地下1階、設計は東京のイギリス大使館などの設計も行ったイギリス工務省の建築家J.C.ワイネスで、施工は日本の昭和土木建設です。

外壁から内側に下がり、2本のコリント式円柱が左右に置かれた入り口。開口部上の
半円形のペディメントの上部が開放され、四角い窓とその上を覆うひさしにつながっています。
こじんまりしていますが、落ち着いたデザインです。余り大きくない建物に良くマッチした、
しかも重量感を感じさせる顔といえそうです。

 建物の作りとしてはイギリス18世紀のジョージアン様式の特徴がみられ、玄関のファサードは、2本のコリント式円柱が両脇を固め、玄関扉上部には櫛型のブロークン・ペディメントをあしらっています。窓は3連窓で華麗な装飾が施されて、いかにも英王国の気品と落ち着きを感じさせる意匠です。
 この領事館は、いわば仕事場で領事公邸は別にありました。しかし、特に領事館員、従業員の宿舎を置かなかったため、2階を領事館職員の宿舎に、3階を使用人宿舎に利用し、地下には機械設備を置きました。

領事の執務室。静かで落ち行いた雰囲気です。公開されていますので見学可能です。

 昭和56年から横浜開港資料館として使用しながら、新館を増築して、開港時とその後の発展に関する資料を収集・調査・展示・研究活動を行う施設として活用しています。
 活動の成果は、常設展、企画展などで一般に公開されていますので、関心のある方は一度訪問されることをお勧めします。
●所在地: 横浜市中区日本大通3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?