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079. 未だ創造的能力を誇る能はず

伊藤博文は、サンフランシスコでの日の丸演説の前年の1871年に半年ほどニューヨークに滞在し、法律の調査をしていますが、すでにその時には、アメリカで1856年にペリーが提出した合衆国議会版『日本遠征記』(原題:Narrative of the Expedition of An American Squadron to the China and Japan etc.)が発刊されていました。

アメリカがどのような経緯で日本に開国を迫ったのかについては、草思社文庫『日本1852 ペリー遠征計画の基礎資料』(原題:Japan: An Account, Geographical and Historical, From the Earliest Period at Which the Islands Composing This Empire Were Known to Europeans, Down to the Present Time, and the Expedition Fitted Out in the United States, Etc.(日本:地理と歴史 この列島の帝国が西洋人に知られてから現在まで、及びアメリカが準備する遠征計画について 1852年、C・マックファーレン著 渡辺惣樹訳 草思社文庫)に紹介されていますので、ご興味のある方はご参照ください。
当時のアメリカは、日本を鎖国から開いたのは自分たちだという意識もあって、日本への注目が高かった時です。伊藤博文の滞在中に、「日本遠征記」に記載されている内容についてアメリカ政府の関係者たちと議論をする機会もあったのではないかと思います。

その日本遠征記にはこんな一節があります。

「すべてのアメリカ人は、木造の家屋を建築する際に日本の大工達が示した熱棟した枝術、即ち整理の巧さ、接合の滑な仕上げ、床張りの整然さ、窓框、移動式戸板及び幕のきちんとしたはめ方と滑りよさを歎賞した。家屋や公共建築物全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた。前者は画一的で、叉多分昔の型に従ってゐるのでもあり、叉疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであったが、細部の仕上げは経験が進むに従って獲られた完全さを示してゐた。」

(②「ペルリ提督 日本遠征記(4)」 岩波文庫)

「全体の設計は、構造の細部の仕上げよりも甚だ劣ってゐた」と書かれています。これは言い換えれば、全体を捉える力がない、グランドデザインをする力がないということでしょう。
現代でも、日本のものづくりについて、「大きな絵は描けないが、細部を加工させると見事に仕上げる」……といったことが言われています。ペリーはすでにこの点も見通していたということになります。
そして、設計が劣っているのは、「疑もなく、政府から定められた規格内に創造力が制限せられてゐることを示すものであった」と書いています。つまり、国民の自由な発想を制限するような施策を幕府がとっていたというのです。
このことは、大型船の建造禁止令などからも理解できます。
1635年に出された大型船の建造禁止令では、大きさは五百石船(75積載トン)までが許可されていました。その理屈は、海外貿易を禁止している日本には(とはいえ、支那貿易は海外貿易として扱われず許可されていた)、国内の廻船に使用する程度の大きさの船があればよいので、五百石船で充分、大型の帆船は必要がない、ということでした。
しかし、これでは小さすぎるということで、3年後には改正されて、商船については千石(150トン)までが許されるようになり、千石船とよばれる弁財船がつくられて北前船などに活用されました。
大きさに制限が設けられたのは必要がないということでしたが、これは表向きの言い訳で、実際は、兵士や資材を一挙に大量に搬送できる大型の軍船を建造されては幕府転覆につながりかねない、という為政者側の論理で出された禁令で、歴史的な流れや環境の変化、国家としてのあるべき姿といったことを無視した、まったく内向きの発想です。
もちろん、ある時期には、体制を固めることが最優先されて、そうした施策を取ることも必要でしょう。しかし、長期にわたって、こうした内向きの論理で大きな枠をはめて国民の行動を制限し続ければ、当然、発想・技術はそこで止まり、その国が大海を知らず大きな歴史の流れから取り残されるようになっていくのは自然の成り行きと言えます。

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