見出し画像

084. 近代化を可能にした読み書きの土壌

 独創性に欠けると言われながら、日本は経済大国と呼ばれるようになり、科学技術の面でも、ノーベル賞の受賞大国に成長しました。いまにしてみれば、殖産興業、ものづくりの面でみると明治以来の道のりは紆余曲折があったものの、あたかも、あらかじめ設置されたレールの上を行くがごとく走ってきたように見えます。
帆船や櫓で漕ぐ和船しかなかった江戸時代末期の日本で生まれ育ち、巨大な蒸気船を前にした若き政治家たちは、欧米トップに並ぶ経済大国というゴールをなぜ描けたのか、そこへのロードマップをなぜ設定できたのか、わたしには、非常に不思議でした。
「3.日の丸演説(7) 028 文明の最高点に到達せんとする」でご紹介したように、1872年、岩倉使節団に参加した伊藤博文は、太平洋を横断して到着したサンフランシスコのホテルの歓迎パーティで、
 
「西欧の科学を学び、日本は近い将来、トップに追いつき追い越したい」
 
と主張しました。
 そして、明治の初期に若き政治家たちが目指した殖産興業への道程は、それなりのロードマップで実現されました。
いきなり文明社会の技術開発レースに、大きく周回遅れで飛び入り参加した日本が、トップに並ぶと宣言したその自信はどこから来るのか、大きな疑問でもありました。
明治維新を迎えて西洋文明が大量に入って来るに際して、それらをしっかりと受け止め、大きな混乱もなく導入・利用できたのには、それなりの土壌が必要と思います。
そうした土壌の一つとして、ペリーに「読み書きが普及していて」と指摘された教育程度の高さもあげられるでしょう。
当時来日した多くの外国人たちが、表現が違っても口をそろえて「日本には読み書きできない人間や、祖国の法律を知らない人間は一人もいない」と言っています。
4ハイの蒸気船に玄関を叩かれて、戸を開けてみたら自然科学の進んだ知識やその応用技術、さまざまな新しい文化が、堰を切ったように入ってきました。
それらを見た日本人は、いずれも考えられない質の高さと物量の豊富さに驚き、その格差に圧倒されたことから、日本の社会は知識・文化レベルも低く、庶民には科学性もまったくなかったかのように喧伝されてきましたが、この時期に来日した外国人たちの目には、必ずしもそうは映らなかったようです。
明治初めにやってきた外国人の中には、日本人の行動や習性から日本人には技術的な素養があることを発見した人たちも、かなりの数います。
こう書くと、そんな意見ばかりを集めていると非難されかねませんが、その後の日本の技術史における貢献度を見れば、探さなければ見つからないくらい少数意見だったとはいえ、そうした意見が正鵠をついたものであったといってもいいかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?