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(4)中国人は人を信用しない。

■中国人の敵は中国人である。

 何やら物騒なタイトルになったが、そういうことらしい。
 中国での葬式の特徴の一つに「護摩」のように、供養にお金を燃やすことがある。
 死んだ人が、あの世で貧しい生活を送らないで済むようにという思いからのことのようだが、見るたびに、不思議な思いがする。
 お金と言っても、さすがに本物を燃やすのはもったいないし、問題なので(貨幣損傷等の罪で罰せられる)、燃やすのは、印刷したおもちゃの「札もどき」、これを紙銭、冥銭と呼ぶようだが、正式なお金の紙幣とは区別している。燃やすことでお金を冥途にいる人に送ることができるという。送るのは多ければ多いほど良いとのことで、紙銭を景気よく火にくべるのですね。彼岸の世界でも頼るのは「金銭」ということなのだろうか。

 中国人の敵は中国人である。少しでも弱みを見せると、つけ込まれるのが中国人社会の特徴である。
 このため、つねに肩肘を張り、他人につけ込まれないように精神を張り詰めている必要があるが、これは非常に疲れることである。
 中国人は一生のあいだ営々と働き、貧乏暮らしのなかで食事もろくに取らずに金を貯めるが、葬式には大金を投じ、お墓にはお金をかける。
 巨大な朱漆を塗った棺に入り、日当たりのいい斜面の立派な墓に入れてもらう。それは、彼らが死んでやっとくつろぐことができるからである。そのときを楽しみに苦労をし、我慢をしているのである。

『岡田英弘』著作集Ⅳ P.108

 なので、例えば、1人の中国人と1人の日本人が競えば、中国人が優秀だから勝つが、10人の中国人と1人の日本人が競えば、日本人が勝つ、と中国人は言うとか。
 なぜか、中国人はまず中国人を負かそうとする。10人の中国人同士が争っている間に、日本人は確実に成果を上げていくので、結局、10人の中国人は1人の日本人には勝てない、ということらしい。中国人がそう言っている、と岡田英弘はいうのである。
 仲良く協力するということがなかなか難しいのだろう。黙って任せると、自己主張をするばかりで、自分が引き下がって仲間を讃えたり、相手を慮って協力する、団体行動をするという姿勢に伝統的に慣れていないのでしょう。

 改革開放以来の中国人経営者たちの儲け話への突進ぶりを見ていると、仁義も何もない、わき目もふらず、人の迷惑顧みずにひたすら一直線で儲け話に食らいつく姿に驚きますが、こういう話を聞くと、なんとなく納得してしまうのもたしか。
 海外に進出して活躍する仕方を見ていても、個人が個の力でぐいぐい進出先に食い込んでいく中国人と、チームワークで協力しながら少しずつ信頼を勝ち得ていく日本人のやり方の違いが、岡田の説から見えてくるような気がするなあ。

■中国人は人を信用しない
 また、シナ人の特徴として、岡田英弘はこんな点もあげています。現代の中国人にも基本的にこんなところはあるように思えます。

 中国人が話し言葉によって直接コミュニケートできる範囲は非常に狭い。省の境を越えると言葉は通じず、知り合いもなく、外国人同様である。このため中国の各都市には同郷者用の会館が多数存在し、そこに同郷者が集う。そこに行けば話は通じるし、知り合いにも会える。しかし一歩外に出れば敵地同様である。したがって、中国人は初めて会った人をけっして信用しない。
 また、仲間同士であっても簡単に裏切る。これは言葉だけの問題では説明できないが、中国人は人を信用しない。親子間や夫婦間であっても完全には信用しない。 なぜなら、人を信頼するとかならず裏切られるからであり、自分の弱みをさらすことになる。自分を 守るためには人を信用してはいけないのである。

 これがじつは華僑資本が大きくならない最大の理由である。

『岡田英弘著作集Ⅳ P.106-107』

 一読すると、両方ともずいぶん誇張されているように感じられるが、うなずかされるところもあります。というのは世界の大きな都市には中華街があり、そのどこにも、広東、福建、四川、湖南、潮州・・・などの同郷会があります。どの同郷会も多くの参加者で交流は活発に行われているようです。同郷の仲間から一歩外に出ると、敵地同様、という意識は近年薄らいできたとはいえ、なんとなく理解できる気がします。
 かつて世界に散らばっている華僑たちは、「落葉帰根」といいました。世界中に散って異郷で活躍しても、死ねば葉が落ちるように故郷の土に帰るという意味です。最近は「落葉生根」=世界に散ったところで根を生やしそこで土になる、という流れになっているようですが、いずれにしても、中国人の同郷会に対する思いは、日本人の考える県人会などとは比べ物にならないほどの強い結びつきのようです。

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