口先だけで愛を請い
報酬は払うから一つ頼まれてはくれないか?
そう三つ年上からの友人からメッセージが来た時、桜沢雫は珍しいこともあるものだと首を傾げた。
なんですか?
そう返事を返せば即座に電話がかかってきた。時刻は零時を少し過ぎたところである。ますます珍しい、と欠伸をかみ殺して電話に出る。風呂上がりの湿った黒髪が耳にかかって少し煩わしかったのを覚えている。
昨夜は徹夜をして、昼前に友人である讃岐ーー年齢不詳性別不詳ついでに人かどうかも不詳な自称うどんの妖精ーーにたたき起こされて神社巡りをしたのだった。ちなみに讃岐というのは桜沢がつけたあだ名で、本名をうどん・ドンドドンという。本名かどうかは不明。ゲーム好きな彼、あるいは彼女はやってるソーシャルゲームで好きなキャラのウルトラレアが出たのにどうしても排出されないとかなんとかで願掛けに行くのだと連れまわされた。いくつかの神社をめぐって、ソシャゲのレアキャラを真剣に祈る横顔を見ながら、自分も穏やかに過ごせますようにとかなんとかふんわりとしたお願いをした。神社は願いを言うところではないらしいが、日本人らしいと言えばそうだろうと思う。そのまま夕飯を食べて別れた。ちなみにその讃岐が求めていたウルトラレアとやらはしっかり引いた。桜沢が。讃岐は口に出しては言わないが、桜沢のことをウルトラレア確定演出機だと思っている節がある。確かに運はいい方だが、そんなことに使わせないでほしい。いや、友人のためになるならいいのか?桜沢としては少し複雑だ。同じマンションの違う階に住んでいるその友人はじゃあねー今夜は徹夜だぜ!!育成するぜ!!!と偉い意気込みようだった。そういうところが憎めずに少し愛らしく感じる。友人を辞められない所以である。閑話休題。
寝不足のまま酒を飲んだせいで頭がふわふわとしたいい気分で帰宅して、そうしてようやく眠りにつこうかなとしていたところであった。割と結構とても眠い。
「どうしました?」
「今から会えないかな?」
申し訳なさと少しの緊張が綯い交ぜになった声におやおや?と疑問ばかりが募っていく。年上の友人を伊乃木蜜人という。伊乃木はこんな時間に電話をかけて人を呼び出すタイプではない。きっちりと事前にアポを取るタイプで、ついでに言えば寝るのが早いのでこんな時間に起きていることがそもそも珍しい。
「何かあったんですか?」
事故か事件か、何か嫌なことでもあったのか。
「君は古物商なんだよね?」
……ずいぶんと雲行きが怪しくなってきた。どうしたんだろうか。人の仕事にさして興味のあるタイプではないと思っていたのだけれど。
「ええと……先輩が、肝試しをして、変な鏡を持ち帰ってきてしまって」
「はぁ」
「やばい、やばい、て言ってきかなくて。錯乱してるんだよね……」
「はぁ」
「きみ、そういうの得意じゃなかったかなと思って……詳しい奴に見てもらえば先輩も落ち着くかと思って……夜分遅くに申し訳ないんだけど」
「どういうイメージなんだろう」
その手のあまりに「やばい」ものなら、共通の友人である讃岐か兎野のほうがよっぽどうまく対応できるはずだ。もっとも兎野に自覚があるかどうかはかなり怪しいが。讃岐は腐ってもひとではないし、兎野はどこぞやのなんらかのカミサマの信者である。つまるところ兎野は新興宗教の信者であり、しっかりとどこかのカミサマから加護を受けている身であるので、お祓い……とかできるんじゃないだろうか。もっとも彼女は女性なのでこんな深夜に呼び出しは難しいかもしれないが。
一方桜沢はと言えば、ほんの少し民俗学の知識があるだけのただの人間だから、本家本元元気な怪しものをどうにかすることはできない。できたら苦労はしていないし、身に余るほどの武装もしていない。実際そういうことができる人間たちに心当たりはなくもないので、できることと言えば彼らを紹介することだけである。まぁこちらも深夜に呼び出すことは難しい。必ずどうにかしてくれるいい子はもう布団の中ですやすやと眠りについているだろうし。なにせその肉体、彼女は五歳の子供なので、夜更かしは厳禁なのである。当たり前だが保護者の許可も下りないだろう。
「一度見てもらえないかな。ただの鏡だってわかれば落ち着くんじゃないかと思うんだよね」
「元の場所にお戻しするというのは?」
「怖いから行きたくないんだって」
「はぁ…………」
なんとも無責任な肝試しだなと思ったし、実際声にも出た。
「ごめんって。報酬は弾むから。先輩が」
申し訳なさそうに再度頼まれて、友人の言うことだしなぁと桜沢は唸った。友人に何かあったらそれはもう夢見が悪いだろう。ちなみに讃岐は?と聞いてみたところ電話に出ないらしい。さもあらん。
「まぁ、いいですけど……俺もう今日は酒飲んだから運転できないですよ」
その言葉にタクシー代は俺が出すよと即座に返された。マジか。じゃあ向かいますと返して電話を切る。
今夜も寝るのは遅くなるらしい。もう一度欠伸をしてからインスタントコーヒーを沸かす。住所を送って貰っている間に徹夜のお供のコーヒーを飲み干し顔を冷水で洗う。寝るために外したアクセサリーを片っ端から付け直して、ブレスレットを一本余計に手に取った。彼が集めているアクセサリーの大半はまじない用のアクセサリーである。幼馴染がそういうのをつくる仕事をしているので、重宝しているのだ。愛用のナイフを服の中に仕込む。別にオバケには一ミリも効かない只の武骨なナイフだが、これはもはやお守りのようなものである。桜沢は知っている。時に人間はオバケより怖い物であることを。もっともナイフを常用する男はその人間の中でも怖い方だし、銃刀法違反もちょっと怖い。それから家にあった飲みかけの日本酒と、食塩を。あってどうにかなるようなものではないだろうが、ないよりはよっぽどマシだろう。
タクシーに乗って指定された住所に向かいながら、自称うどんの妖精、讃岐に桜沢の方から連絡を取ってみる。メッセージも電話も出なかったがSNSからはしっかり反応が返ってきた。寝てないよォ。今日は育成!新要素衣装を見るまで寝れないぜ。帰宅時と変わらないハイテンションの元気な返事にほっとする。電話にだけは出るように念を押しておく。最悪、呼び出せばなんとかなるかもしれない。ああ見えて割と、すごいので。
結論から言えば、タクシーに案内されてついた段階で乗ってきたタクシーで家に帰りたいなと素直に思った。これは真面目に「やばいやつ」で、たぶん五歳の友人やら自分の店の店長やらを引きずり出さなければいけないやつだと思った。つまるところ桜沢にできることなどその時点ですでに何もなかった。讃岐よりは兎野のほうが適任かもしれない。呼べないが。家の中に入ろうとさえ思わない。本能には従う質である。俺にはどうにもできません。その人は朝までは到底持ちそうにありません。伊乃木さんがその肝試しに参加していないのであれば今日は帰って、明日は是非兎野さんと遊んでもらうのがいいと思います。いろんな言葉がよぎっては消える。持ち出したのがまず全面的に悪い。けれど勝手についてきた可能性もある。そういうものは得てして勝手についてくるものである。はた迷惑なことに
『来ました、けどこれはどうにもできそうにありません。鏡とやらはおそらく本物です。早期撤退をおすすめします』
素直にそうメッセージを送った。桜沢は霊能者ではない。退魔師でも神主でも僧でも、研究者でもない。愛してくれる神もいなければ、妖精やうしろがわのものたちでもない。人より少しばかり背後の世界というものになじみがあって、人より少しばかり視ることに長けただけのただのちっぽけな人間である。桜沢よりよっぽど『それっぽい仕事』をしている幼馴染だって、これをどうにかすることはできないのではないかとおもう。それこそ、霊能者だの退魔師だの神主だの僧だの妖精だのというものでなければ。こういうものは相性もあるのだから。
力量以上のものとかかわるな、というのは桜沢の働いている古物商店の店主の言い分で、桜沢はそれを身に染みて理解している。そう遠くない過去に、見誤って大やけどをしたこともあるのだ。
『どういうこと?』
返信は早かった。わかっているのかいないのか、怪訝そうな伊乃木の顔が脳裏に浮かぶ。そのまま扉が開いて、当の本人が顔を出した。男でもほれぼれするような美しい顔だちが印象的な彼は桜沢の三つ年上の友人である。顔をだした扉の奥、右の方の部屋からよく知った嫌な気配がする。嫌だなぁ、素直にそう思った。
「おう……」
桜沢が手早くその口をふさいで、扉を閉める。サクラと呼んでくださいますかと囁けば、疑問符だらけの顔が腑に落ちないながらもうなずいた。そういえばさっきの電話で呼ばれなくてよかったな。たすかった。それは偶然だけれど、偶然には従うものである。つまり『名前を知られてはいけない』
「何人で行ったか、って聞きましたか?」
「俺含めて三人だけど」
「行ったんですか…………」
これはプランを変更しなければならない可能性が出てきた。ポケットから気休めのブレスレットを取り出しながら、桜沢は苦い顔をする。
「いったよ。レポート出しに行ったらそのまま連行されて。昨日は遅かったから早く寝たかったのに」
奇遇ですね、俺もですよ。今日は早く寝る予定だった者同士、寝不足で少し機嫌が悪そうだった。あまり影響を受けていなさそうなのは、こういうものをはなから信じていないからだろう。信仰心というものはこういう怪異にとってとても大きな意味を持つものだ。その手首に手早くブレスレットを取り付ける。少しは魔除けになるだろう。気休めだが。
「なにこれ」
「預かっていてください」
「つけてればいいの?」
「そうです。肝試し中から今この瞬間まで、誰かから名前を呼ばれましたか?」
「え、いやどうだろう……」
「あだ名とかありますか?普段なんて呼ばれてます?」
「矢継ぎ早に何?」
「大事なことなんです」
とても大事なことなんです。二度続けてまっすぐに見つめ返せば、驚いたように瞬いた後、ため息をつかれた。ひどい。
「くん付けでって呼ばれることが多いよ」
「そうですか、わかりました」
本当なら、本来なら、この友人だけをつれて、自称うどんの妖精の家に転がり込み朝を待つのがきっと一番いい。獲物をひとり横から浚われたことに多少ご立腹するかもしれないが、今は注意もそれているようだし。でも伊乃木は、この友人は先輩を助けてほしいとそういったのだ……たぶん。ふたりのどちらもが先輩なのか、片方は存在しない友人というやつなのかはわからない。伊乃木の交友関係について桜沢はただの友人なので全然詳しくないのだ。
深呼吸をして、瘴気の漏れる玄関を眺めて、もう一度ため息をついて腹をくくる。ひとまず確認だけはしよう。伊乃木が先輩たちと呼ぶ彼らが実在するのか、まだ間に合うのかの確認を。なんで死ぬ覚悟なんか決めなきゃいけないんだとどこかにある理性は喚いたし、自分でもその理性の意見については大いに賛成なのだが。それでも、仕方がない。何せ数少ない友人の頼み事である。そう、かなしいかな、桜沢雫は友人が少なかった。
「ご依頼は」
ぺろりと唇を濡らしてからつぶやいた言葉に伊乃木が首を傾げた。
「うん?」
「ご依頼とやらは鏡を見てほしい、であってます?」
見捨てていいなら見捨てたい。何せまだ知り合ってもいないのだ。伊乃木には悪いけれど、肝試しなんて行く方が悪いに決まっている。というか決めた。今決めた。行く方が悪い。
「そうだね、鏡を見てもらえたらいいかなって」
「ならひとつ、俺の指示には従ってくださいね」
「それは……いいけど」
右の部屋ですよね。玄関のドアを再び開けながら、確認を入れれば、よくわかったね、と不思議そうな声が響く。
「一応、先んじて言っておきますが俺は、場を解体することはできても、本来のあやかしい者たちをどうにかすることはできません。人ならざる者というのは確かにそこにあって、そしてただそこに在るだけの存在です」
「……何言ってるかわからないんだけど」
「俺にできるのは、本物じゃなかった時の場の解体だけだってことですよ」
それだって成功するかどうか、とは口に出さなかった。除霊はできない。浄霊なんてものはなおさらだ。桜沢にその手の力はない。兎野を守護しているカミサマならば可能かもしれないが、あやかしいものをどうにかするために新人深くない我々があやかしい物を頼るのはさすがに本末転倒というものだろう。さて、ではどうしようか。桜沢に取れる手は少ない。鏡を返すか、話ができるならば話をするか、さもなくば。
そういう不思議な力があればなぁと思うことがないわけではない。頼られたり、命の危機がある時ならば特に。けれど人間が抱えられるものには限度があることを桜沢はよく知っている。桜沢にそれが備わってないのならば、それは桜沢にとって分不相応というものなのだろう。与えられたものを飲み込むことに桜沢は長けていた。扉の前で取っ手をつかむと、桜沢は今更ながらにもう一度深呼吸をした。大丈夫、大丈夫。みるだけなら、まだ。
ガチャリ、と音を立てて扉が開く。中からは嫌な、本当に嫌なにおいがしていた。
酒の気配がむわ、と広がる。扉を開くまで不気味なほど静かだったその部屋は、扉を開けた瞬間から悲鳴によく似た場違いな笑い声があふれ出した。
「うっわ」
扉の隙間からそれを見た伊乃木が嫌そうに顔をゆがめる。一見酔っ払いの狂乱に見えた、それを横目で見ながら、桜沢は鏡、鏡と周囲を見回す。
「あれだよ、あの鏡」
それは確かにそこにあった。いっそ不気味なほど静かに。
昭和や大正を思わせる少し古い意匠の鏡。古道具といった風情のそれは手鏡だった。木でできた淵は少し黒ずんで、長く使われていた形跡があった。
「君に見せるほどのものかわからなかったんだけど」
「いえ、あれは……」
伊乃木に見えているかは桜沢にはわからなかったが、鏡の部分にはべっとりと残る赤黒いあと。そう、それはまるで血を拭き取ったような。
「あ」
血のりのその奥、よく見えないはずの鏡の中に、人影が一人映り込んでいる。それは桜沢も伊乃木も映り込むことのない位置、ましてや先輩方ですらもなかった、長い長い髪の、女の人影。
ぞ、と背筋が震えた。影は狂乱のエネルギーを吸い込むかのように徐々に姿を現し始めて、ああ、手が、手がこちらへと伸ばされ、て。
腕が伸びてくる、そう確信した瞬間だった。ぽん、と場違いな電子音が鳴った。そこで凝視していたからだがふと弛緩する。慌てて鏡から目をそらして音の発信源を握りしめる。肩の力が抜けた。
それは、スマートフォンから鳴っていた。メッセージが送られてきたことを示す電子音。
画面へと視線を落とせば、『みるな』の三文字が送られていた。発信者は友人の自称うどんの妖精。
『ねぇうちにおいでよ、ボスが倒せそうにないんだ、知恵を貸しておくれよ。ボンバイエくんも一緒にどう。旨い酒もあるよ!今日はパーリィナイトなんだぜ!』立て続けに送られるメッセージを見て、静かに息を吐く。詰まっていた呼吸が楽になる。先ほど感じた寒気はもう感じていなかった。
「どうしたの?」
「いえ…………これじゃあ鏡の鑑定も何もなさそうですね。俺たちも飲みなおしませんか?……讃岐さんの家で」
「何、急に」
「誘われたんで」
送られてきたメッセージを見せると、話についていけないとばかりに眉をしかめた。
「でも先輩が」
「あんなに酔ってたらお話ももう聞けそうにないですし、明日また片付けにきましょう」
「まぁ、それはそうか……」
「行きましょう」
再びソレに捕まる前に、と矢継ぎ早に言葉を重ねて一歩も入ることのなかった扉を閉める。閉める直前、扉の隙間から見えた女の容貌はこの世ならざる風貌をしていた。
折角持ってきたことだし、あの女に外に出られてもまずいので、と扉前に食塩で盛り塩をつくる。あってどうなるものでもないが、ないよりは幾分かマシだろう。
伊乃木が気づいたか気づいてないかは定かではないが、盛り塩が完成した瞬間に、ドアから漏れ聞こえていた悲鳴ににた笑い声も喚き声も遮断された。
これでしばらくは持つだろう。できればこの行為が、見捨てるという行為に限りなく等しいことだということを伊乃木が気づかなければいいと桜沢は願う。
タクシーを呼んで伊乃木の準備を待つ。幸いなことに彼の荷物は玄関先にまとめてあった。運がいい。
「先輩、あんな飲んでて大丈夫かな」
「大丈夫ですよ」
その大丈夫の意味が桜沢と伊乃木で違うということに伊乃木はきっと気付かない。
自称妖精の家で酒を飲んで寝て、明日昼頃起きたころにはきっと、あの怪異に飲み込まれた『先輩』のことはきっと記憶から消されているだろう。
言いたいことを飲み込んで、桜沢は曖昧に笑った。
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