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【山奥3】幸せ馬鹿にはなりません

 今は、とても変わったどこにもいないバカに落ち着きたい僕です。小さい頃は頭の悪いクソガキでした。今回はこんな書き出しで始まる山奥さんの投稿をもじって書きます。既にもじっています。自分を語るのは苦手ですができなくはないので頑張ります。

 幼い頃、祖父が亡くなり、しかし僕には死なんてわからないわけですから、チューブにつながれた祖父を見て、「スパゲティみたい」といったそうです。本なんて読まないし、生きる意味なんて考えもしませんでした。中学2年までは好きなことだけやっては、よく怒られていました。今では親や教師がどうして怒っていたのかよく分かります。恵まれた環境にいたことを最近つくづく実感します。勉強は嫌いでした。今思うとすごく馬鹿馬鹿しいなんて思わないぐらい、受験は死ぬほど苦しかったです。

 好きなことをするだけで、社会に絶望しても、やはり好きなことばかりして、嫌いなことはしないので、成績はトップクラスだったとは思っていても、親は首を横に振るようです。しかし、一瞬、勉強に喜びを感じはじめ、可もなく不可もなくの高校に入学するのでした。このバグのために今、またもや可もなく不可もなくの大学に通い、少しの勉学へのやる気を見せているので、良かったのかもしれません。しかし、高校卒業の頃には僕はやや底辺にいました。教師に歯向かうは勉強もしない、厄介なバカでした。200万円くらいは捨てたようなものでした。もっと多いかもしれない金銭の犠牲を経て、僕はいま、人とは、人生とは、社会とは、とひたすら悩み続け、必要以上に他人と比べることをやめられず、自分らしく生きることのできる環境を手に入れようともがいています。あの大金をドブに捨てたものか、先行投資と見るかは、今の僕の取り組みにかかっていると思います。

 山奥さんの「私だけの小さな幸せを日々探している。」という境地に達していることは尊敬に値します。競争社会だからこそ、目指すべきはそこだと思います。しかし、僕はまだまだ上に行ける気がします。僕にとって競争をやめることは現状維持バイアスのそのものであり、退化を意味します。

 現代社会で生きるってなんだろうとよく考えます。遊びに行った東京から帰るで電車で疲れ果てたサラリーマンを見るとよく思います。果たして、しんどくても仕事をしてお金を稼がないといけないのかと。「それなりの暮らしをこの先死ぬまで続けることができたとしたら、それはとても幸せなこと」なのだろうか。「その暮らしの中で小さな幸せを私は見つけていきたい。幸せは案外どこにでもあって、それを見つけられるかどうかが鍵になる。」そう山奥さんは考えています。(今はどうか知りません。)

 概ね同意しますが、そのためには今持ってる幸せを手放しては行けないと思います。好きなことから離れて僕は生きていけません。今の幸せは将来の幸せと地続きです。今を見つめない人は未来も見据えることはできないでしょう。

 次は私の幸せについて書こうと思います。


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