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話すこと聞くとこ

 程よく相槌を打って、たまに復唱して、求められたら自分の考えを言う。これが理想の話の聞き方だと思っている。この頃、相手に聞いてる?と言われるまで意識が飛ぶことがあり、気をつけている。お前の意見は求めていないと言われたときには、この世にそんな会話があったものかと驚いたが、意外と普通らしい。男は理屈で女は感情で話すとか言う人がいて、僕はそのように一般化しようとおもわないけど、言おうとすることはわかる。僕は僕の感覚で話をするので、その過度な一般化に当てはめられては迷惑だ。ただ、相手が居て成り立つのが会話なのだから、せめて目の前の人の話ぐらい黙って聞いて、ついでに尊重もできればいいと思う。コミュニケーションが苦手だと自覚しているが、改善の余地が大いにある気がしている。会話が楽しいという気持ちも改善しようとする意識に繋がっている。
 僕はここ2年ほどヘッドフォンをして生活をしていた。本を読むのが好きなので、静かな場所を求めて図書館やコモンスペースなどにかよった。静かなところでは少しの会話や物音でさえ気になってしまう。だから、他者との隔たりを厚くするように、ヘッドフォンをつけ音楽をかけて外の気配すら遮断していた。静かさを求めヘッドフォンをつけると周りの音は聞こえなくなるが、他者を排しどんどん孤独へ、そして静かさとは対極へと向かっていく。ヘッドフォンが壊れてから、その矛盾に気がついた。すこし気が晴れた。そしてヘッドフォンをした人の物音の大きいことにしばし驚く。他者性を排したうえに、自分を見る眼差しすら曇らせる。おそらく誰も自覚はないだろう。社会的な生き物は安易に社会性を絶ってはいけないと思った。孤独一歩手前の行動はいたるところに綻びが生じる。
 すぐ隣に人が居て、話ができることのありがたさを数年前の大混乱で味わっただろうに、あの隔離された生活は人々に、少なくとも日本人には他者性を忘れさせた気がする。
 

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