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1960年代日本における「おふくろの味」~和食を食べたがる夫と洋食を作る妻~

帝京ライフロングアカデミー

皆様ぜひお運びくださいませ
私はNo. 2の大野雅子でございます。

1960年代日本における「おふくろの味」~和食を食べたがる夫と洋食を作る妻~

「おふくろの味」という言葉はいつから使われ始めたのでしょう?(最近はあまり使わなくなりましたけどね)。図書館のデータベースで調べてみました。読売新聞1963年の記事です。男性記者が「おふくろ」が作ってくれた「ヒジキの煮物」と「イカの塩辛」をなつかしがっているのです。

この記者さんのバックグラウンドを、様々なデータと数字を駆使しながら、ミステリー小説のように推理してみよう!というのが、今回の講座です。今回だけ、大盤振る舞い!この記事を読んでくれた人には答えを言っちゃいます!

記者さんは地方出身者

1955年から1965年にかけて、東京の20~24歳の男子人口は倍増、東北と九州では半減しています。農業人口が激減した時代、集団就職の時代でした。読売新聞の記者ですから、集団就職ではなく、大学に入学するために、上京したのでしょうけど。

「ヒジキの煮物」と「イカの塩辛」ということは、東北か九州の海に近い地域の出身か?

独身の可能性もありますが、記事の中で、「兄嫁」に言及していて、兄は亡くなっているようです(戦死?)。ということは、それなりのお年です。結婚していると仮定しましょう。

奥さんはなぜ「おふくろの味」を作ってくれないのでしょう?ここが肝心の問題です。

『お茶漬けの味』における階級格差

小津安二郎の『お茶漬けの味』(1952年)、見たことありますか?夫は長野県出身のエリート会社員。妻の実家は大磯にあり、姪のお見合い相手が「お父様のスウェーデン時代の書記官」ですから、父親は外交官だったのでしょうか。地方出身の男性が自分の腕一つで成り上がり、上流階級の奥様をもらったわけですが、食の好みがあいません。夫はお茶漬けが好きなのに、妻は「よしてちょうだい」と冷たく言い放つのです。

こんなふうに、記者さんの奥様が上流階級出身だから、「おふくろの味」を作ってくれないという可能性もありますね。上流階級ではないとしても、記者さんが東北または九州出身で、奥様が東京出身だとしたら、味の好みが合いません。

『だいこんの花』における「お手伝いさん」

『お茶漬けの味』の家庭には、女中さんがいます。1960年代以降、「女中さん」は急速に日本から姿を消していくのですが、テレビドラマ『だいこんの花』(1970~1977年)の永山家には、「行儀見習い」のために「お手伝いさん」(1950年代後半から「女中」は差別用語)として住み込んでいる女性がいます。

記者さんの家庭にも「お手伝いさん」がいたのかもしれませんね。だから、「おふくろの味」を作ってもらえなかったのかも。

母親に料理を習わなかった妻

お手伝いさんがいなかったとしたら?

記者さんのお兄様が戦死だとしたら?20歳のときに戦死、記者さんとお兄さんが5歳違い、記者さんと奥様も5歳違いだと仮定しましょう。(1958年のデータでは、夫と妻が5歳違いが一番多い。)そうすると、記者さんは、1963年時点で33歳、奥様は28歳ですね。奥様は1936年生まれ、お母様が25歳の時の娘だとすると、お母様は1911年(明治44年)生まれになります。

お母様は戦中から戦後の復興期、さらに高度経済成長期にかけて、驚くほどのスピードで移り変わった日本で、娘さんを育てたのですね。娘さんを生んだ1936年は、太平洋戦争がいよいよ本格的になっていった頃、娘さんが主婦として頑張っていた1963年は、高度経済成長の真っ只中。奥様のお母様は、娘に教えるべき料理技術などもっていなかったのです。

記者さんの奥様が頼ったのは、料理本(と料理教室)でしょう。当時の料理本は現実よりもかなり先をいくもの、理想を提示するものでした。

「若大将シリーズ」におけるサラダとビフテキ

加山雄三が主演した映画『大学の若大将』(1961年)で、若大将がハムエッグとサラダを作る場面があります。それから、「ビフテキ」を食べる場面は「若大将シリーズ」全体にしばしば出てきます(老舗のすき焼き屋の息子ですから、肉は常に豊富にありました)。

総合商社に勤めていた友人の話ですと、1970年代だと、外国人の接待のときくらいしか、ステーキは食べれなかったそうですから、若大将はずいぶん贅沢でした。

『きょうの料理』の1959年3~4月号には「生野菜の洗い方」が載っていたのですから、「サラダ」も庶民の食べ物ではなかったのです。

若大将シリーズは、男子の大学進学率が14%くらいだった時代の話。スポーツと恋愛を楽しみ、大学生活を謳歌する若大将の姿は、現実を反映しているというよりは、理想の若者の姿だったのだと思います。

記者さんの奥様にとって、料理の教科書は、料理本や映画などにあらわれる食卓だったのです。自分の母が作ってくれた田舎料理ではなかったのです。

専業主婦の増加

記者さんの奥様は恐らく「専業主婦」でしょう。

1950年、「女子労働力率(15歳以上の女性人口に占める労働力の割合)」は、54.5%でしたが、1975年、45.7%まで減りました。

「専業主婦」は1980年まで増え続けます。1971年、20歳~25歳の女性551人に対するアンケートでは、大半が「結婚したら離職」を望んでいました。(1989年の時点でも、専業主婦願望は圧倒的です。)

記者さんの奥様が専業主婦だとすると、ますますお料理に励まなければなりません。ということは、最先端の料理を料理の本を見ながら一生懸命作るということです。ヒジキを煮るなんて、そんな田舎くさいことやってられません。

『肝っ玉母さん』における「共稼ぎ」

記者さんの奥様がお勤めしていたとしたら?

テレビドラマ『肝っ玉母さん』(1968~1972年)で、長男の嫁は「オフィスレディー」なので、蕎麦屋を営む姑からすると、腹立たしいことばかり。

この時代、働いているからといって、大目に見てもらえたわけではなく、妻として母としてしっかりやることが期待されました。(『肝っ玉母さん』の家庭では、お料理は、店の従業員やら「肝っ玉かあさん」やらがやっていた感じですが。)

専業主婦も兼業主婦も、妻としてのお勤めに変わりはないのです。

『女と味噌汁』における味噌汁と漬物

テレビドラマ『女と味噌汁』(1965~1980年)で、芸者の「てまり」は、味噌汁やその他の和食を出すライトバンのお店を出します。

「どこの家でもパン食みたいな簡単な食事するらしくって、男の人、味噌汁やおいしい御飯に飢えているのよ」ということで。

アンチ・てまりちゃんの女性たちは、朝はパンやサラダ、だそうです。

読売新聞のデータベースでも、この1963年の記事以降、「おふくろの味」をお店に求める男性が増える、という趣旨の記事が増えていきます。

奥様たちが家で最先端の洋食をつくっていたからでしょう。

インスタントの時代

1958年チキンラーメン、1960年インスタントコーヒー、1961年即席味噌汁、1962年きゅうりのキューちゃん、1964年松茸のお吸い物。こんな風にインスタント食品が次々と発売されていた時代でした。

便利に思うと同時に、手作りから遠ざかる「主婦」たちに対する反発があった時代でした。

インスタントの歴史に関しては、ここでは簡単にしておきます。

結論

結論は、こんなことになるでしょう。記者さんは地方出身。奥様は世代的にお母さんから料理を習わなかったので、料理の本を教科書にして、サラダやパンに合う洋風料理など、最先端のお料理を作った。専業主婦が増加した時代にあって、主婦に対する期待値が高かった。または、お手伝いさんがいたかもしれない。インスタント食品が次々と売り出された時代、田舎料理に対するノスタルジアが高まった。

1970年代後半から80年代になると、「おふくろの味」の意味が変化していきます。「おふくろの味」が概念として日本語のなかに固着する過程がみえてきます。これに関してはまた次の機会にお話ししましょう。

皆様にとって「おふくろの味」とは何ですか?

学生たちに聞くと、「バナナケーキ」なんて答えがかえってきます。また、国際化の時代、お母さんが外国人(お父さんが外国人というパターンより多い印象がある)の学生も多いので、「キムチ」が「おふくろの味」だと答えた学生もけっこういました。




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