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いとこたちとの東北旅行(3)


 旅も3日目、我々は秋田へと向かった。Yの巨躯を入れるにふさわしいダイハツ・トールは山を越え、横手を経由し、我々を角館へと導いてくれた。前日の遠野同様、角館も、新幹線の駅から離れているため、行きにくい場所にある。今まで何度もその近くまで行きながら、(そのころは車を運転できなかったため、行きそこねていた。死ぬまでにはぜひ行きたいと思っていた私は、「ナポリ見ずして死ぬことなかれ (See Naples before you die)」の境地に達していた。
 武家屋敷が町としてこの規模で残されているのは貴重である。ほろほろと散る桜の花びらが土手を薄桃色に染める様も美しい。なまはげと出会ったので、一緒に写真をとった。私は良い子なのでとって食われなかった。
 今回の旅は、私の母といとこたちの母の出身一族であるS家のルーツを探ることであったため、自ずと話はそこに逢着するのだが、なんといっても、情報が少なすぎて、全員一斉に「わからない」と首を傾げるか、「とにかく、楽しみましょう」とポジティヴな未来を思い描くか(いとこたちの場合)、どちらかであった。
 いとこたちの母(私の叔母さん)は、昨年百二歳で亡くなった。北海道T市にある、その家屋敷は取り壊され今や更地になっている。新潟の因習的な農村に生まれ育った私からすると、いかにも潔い決断だ。そもそも取り壊しにもけっこうな費用がかかるらしい。
 農家にあっては、先祖代々継承されてきた田畑を黙々と耕し続けなければ、田んぼも畑もすぐに荒地に戻ってしまう。子孫たちの世代のそれぞれがやむことなく土地を守り抜かなければならないのだ。
 北海道T市の叔母の家は私にとっても第二の原風景であった。広々とした洋風のリビングは、ふかふかのじゅうたんと大きなソファーがあって、ベランダの窓からは光がふんだんに差し込んでいた。畳と障子と襖でできている新潟の家の暗さとは対照的だった。
 子どもだった私の印象に強く残ったのは、二階にある娘たち(いとこたち)の部屋であった。三人姉妹はそれぞれに自室をあてがわれていた。どの部屋にも新品の整理ダンスと洋服ダンスが並べて置かれ、それぞれに娘らしい飾り物が部屋を彩っていた。
 その家は、今は亡き長男の嫁の娘(私にとってはいとこの娘)が相続したという。駐車場にするか、賃貸アパートを建てるかして、固定収入を確保せぬまま、ただ土地をもっているだけでは、固定資産税を無駄に払い続けるだけである。その話を聞いたとき、遅ればせながら慌てたが、固定資産税は気にするほどでもないと言っていた。または彼らが鷹揚なのか。
 その家を誰がもらうかで喧嘩にならないのは、不思議である。 
 家に執着する新潟の農村的思考法とは異なる。実は、私の生家は、父の二番目の弟が事業を広げて中国に進出するときに、祖父が誰にも言わずに、抵当に入れたのだが、その後、叔父の事業が失敗して、競売にかけられた。私自身はすでに自立していたので、そのときは、さほど大きなショックは感じなかった。
 しかし、時がたつにつれ、生家がなくなったことは私の心のなかの暗い淀みとなっていった。何年かたってから、私は生家のあたりを訪れてみた。新しい家に建て替えられて、門扉には、その人が村の世話役であることが記されていた。庭は、祖母が精魂こめて花を植えていたころとは違って、雑草が生い茂っていた。塀のすぐ外側を流れる小川には、相変わらずちょろちょろと透明な水が流れていて、水底が透けて見えた。秋になると渋柿がなる柿の木もそのままだった。家の裏にあった畑がどうなったのかは、表からは見えない。
  と、この話を続けると長くなるので、これはまた別の機会にお話ししましょう。
 いずれにしても、固定資産税というのはバカにならない。私は今三軒の家の固定資産税を払っている。そのうちの二軒からは家賃収入があるのでまだいいのだが、越後湯沢が新宿とほぼ変わりない額の固定資産税であることが納得できない。両方ともマンションなので管理費もある。これも両方とも大体同じ額なのである。
 越後湯沢のリゾートマンションというのは贅沢な所有物なのであった。父から不動産を受け継ぐというのは、こんなわけでけっこう大変なことなのであった。
  東北旅行の話、まだ続けないといけないですね。秋田ハタハタ食べた話とかしてないですから。ではまた。

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