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寺山修司「‘70S 寺山修司」世界書院

渋谷のflying booksで見つけた一冊。寺山の「家出のすすめ」は20代の俺に途轍もない影響を与えたわけであるが、いまでも深いところで俺の心を揺さぶるモノがある。彼の一貫した主張は「イエ」からの解放である。赤軍による72年テルアビブ空港小銃乱射事件において、日本が即時に相手国に謝罪をすると同時に、「国内でやらず、なんでそんなところでやったのか」とのコメントを首相が出す流れを見ながら「他人に迷惑をかけるな」という「イエ」の目に見えない呪縛に拘束されている現実を指摘している。彼はベトナムで同じ数以上の北ベトナム兵士を殺した日本人傭兵がいたとして、これは無差別殺人ではないか?この場合、国が謝るか?と、普通の人が聞けば「とんでもな屁理屈だ」と言われんばかりの論を展開する。奥平剛士が父親に「何か生き甲斐を探しに行ってくるよ」と言い残して事件を起こした事実を挙げながら「自己顕示の手段がもはや消費でなく、命しかない時代」の引き裂かれた現実を敢えて表に出す。彼のアイロニカルな視線は「浅間山荘事件」にも注がれる。一日中中継をしていた大衆の根底に「殺人の現場をみたい」願望を直視する。スクリーンの中で三船俊郎、勝新太郎、鶴田浩二は赤軍幹部の数倍もの殺人をしている。日本人はそれに惜しみない喝采を送っている。虚構の中では殺人者が英雄なのだ。虚構の外での殺人者でも戦争中なら英雄で、革命家は「死すべき存在」になる。「革命家は予め罰せられた存在である」「革命家は自らのあらゆる影を自分自身の手で殺す覚悟がなければならない」。彼は日本社会に根づく日和見主義を徹底的に抉りだす。結局日本社会の中の病理としてこれらの事件を受け止めきれない日本にNO!を突き付けているわけだ。本物のアイロニストが激減した現代、一人ひとりがそういう眼をもつしかない時代になっている。そのためには知を研ぎ澄ませないといけない。まだまだヨチヨチ歩きであるが、一歩ずつその眼を磨いていきたい。

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