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吉岡吉典「日韓基本条約が置き去りにしたもの」大月書店


副題は「植民地責任と真の友好」とある。

今日、韓国に新しい大統領が誕生した。
永遠の隣国だけにちゃんとした関係を築いていってほしい。そのためには「知る事」が大事。「バイアスだらけの知る」では百害あって一利なし。多角的にみる必要がある。

今年は日韓基本条約が締結されて57年を数える年になっている。
日韓国交正常化交渉は1951年10月の予備交渉から1965年6月の日韓諸条約本調印、発効まで14年をかけて行われた。有名な下りは「無償三億ドル、有償(政府借款)二億ドル、民間借款一億ドル、計六億ドルの経済供与と引き換えに、対日請求要綱は消滅する」というもの。対日請求8項目は「朝鮮銀行経由で搬出された地金6754万グラムと地銀 2億4963万グラムの返還請求、郵便貯金、振替貯金、為替貯金、国債、貯蓄債権、簡易生命保険、年金関係の返済請求」などが含まれている。

ここ数年、この条約だけを取り出して、「もう日本には責任がない」という論調が目立つがそんな単純な話ではない。この条約の背景から考える必要がある。

まずベトナム戦争だ。ドミノ理論を全面に押し出してのこの戦争は、アメリカのアジア戦略に大きな変化をもたらす。一つはドル危機回避であり、アジア国の巻き込みである。アメリカは対韓援助の肩代わりを日本にさせようとした。

つまり、この条約は両国の自主的な判断による条約でなく、アメリカの世界戦略の一部でしかなかったということだ。アメリカとしては日韓がわだかまりを解消し、共にアメリカと対共産主義共闘を推進するよう、圧力をかけた。外圧的に始まった交渉だったが由に交渉中、日本側からは「朝鮮統治は合法であり、反省云々の必要はない・・」といった発言が飛び交って何度も中断し、また目の前の経済成長を優先させた朴政権は国民から大変な反発を受けながら、この交渉を進めていった。

日本側には「経済供与で過去は清算された」という意識が根付き、韓国側には「悔しいがまず食べることが優先」という論理のもと事が進められ、渦巻く不満をなおざりにする結果になってしまった。

韓国国民がこの条約を「第二の乙巳保護条約」と位置付けるのも納得がいく。この構図からいけば、朴正煕大統領は「第二の李完用(親日派=裏切り者)」と言われても仕方がないと思わざるをえない。いずれにせよ、日本は「自らすすんでの戦争精算」でなく「アメリカの圧力によって」実施したため、「戦争に関する清算と反省」の機会を失っている・・というより村山談話に至るまで、有効性のある行動をほとんどしなかった。

アメリカは反共反革命の軍事体制として「東アジア軍事同盟」(NEATO)の完成を推進するため、憲法9条を拡大解釈して自衛隊を再建し、有事の対応ができる態勢にしようとした。事実51年に日米安保保障条約、51年6月に日韓基本条約、8月米比相互防衛条約、53年10月米韓相互防衛条約、54年12月米台相互防衛条約が結ばれている。東アジア軍事体制の構築である。

こういった背景から、この基本条約は軍事同盟でもあったのだ。
次にこの「経済供与」のやりかたであるが、結局無償というのは投資であり、完全な「ひも付き投資」である。これは日本企業の進出を助ける意味合いをもっていた。日本は韓国の「安い労働力」を「経済成長の道具」に使おうとしていたわけだ。だから、韓国民には第二の植民地支配(経済的)と映ったわけだ。

最後に日本人が意識しない「韓国における軍事力」の日本に対する影響である。50年代以降、韓国軍54万人と在韓米軍二個師団の存在が北朝鮮の南進を妨げてきた・・。ということは日本にとってみれば盾の役割をしていたということだ。かつて自民党の長賀屋氏は以下のように語った。

「日本にとって釜山に赤旗が立つならば、防衛予算を今の4倍にしても追いつかない。韓国が38度線で共産軍の南下を防いでくれているおかげで日本の安全は保たれている」

こんなことは勿論今の日本で議論されることもないし、言っても聞く耳をもたないだろう。極めて客観的な事実であり、真実であるにも関わらずだ!
以上のことを踏まえずに「日韓基本条約ですべて解決済」というのは、あまりに乱暴すぎる議論である。

日本は村山談話にいたるまで、道義的な責任は果たしていない。それどころか、安倍政権ではこれをひっくり返そうとする動きもあった。昨今のジャンク本を中心とした嫌韓旋風はマスコミの「稼ぎネタ」になっているが、まったくその堕落ぶりは目を覆いたくなるほどである。

日本人が半島や大陸で犯してきた残虐極まりない行為は、その地に住んでいた「抑圧されていた側」からでなく「抑圧の手先となっていた元軍人達」が見ていたし、その日記も多く残されている。東京裁判の嵐が吹き荒れる中、組織的に証拠隠滅を徹底して行ったことに一言も触れずに「そういう証拠はない」というのは、常軌を逸した発言だと思う。

俺もそうだが、学校教育では「核の悲惨さ」を語ることはあっても、「半島や大陸で行った残虐行為」については語られない。深い反省に基づいた出発は真に強い人を作るが、反省なしの強弁はいつか破綻をきたす。自虐史というのは後者の選択であるが、残念ながら安倍政権以降、後者の方針を打ち出し、教科書にまで影響を与えてしまった。俺はどんなことがあっても前者の立場を貫く!これも大事なMY CREDO!!

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