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岸田秀「ものぐさ精神分析」中公新書


いつ、どの本でこの著作を知ったのかは忘れてしまったが、心理学分野ではかなり独特な光を放っている一冊である。心理学者である著者自身が継母に育てられ、複雑な家庭背景から神経症に悩まされた経験をもっており、患者の立場からフロイトの理論の深遠に迫っている。

正直、読んでいくと我々が生きているこの社会が全て幻想ということになり、家族も、友人も、恋人も全て単なる「共同幻想」の徒に過ぎないという結論に至り、愕然としてしまうのだが、彼の議論は的外れと言って切り捨てられるほど簡単ではない。

彼は人間を自然界の畸形児だとする。何故か?胎児化(生後の脆弱性)だけではない。いわゆる「親の保護」のもとに「現実を遮断され」本能が壊れた存在として顕在しているからだ。親と子という恣意的な関係はどこまでも「人類が滅亡しないために作られたシステム」でしかないのだ。

我々は日常を実は憎悪している。証拠に戦争になるとその歪が殺戮の正当性という形で成就してしまう。教育や道徳も実は幻想である。学習についてよく子供を「白紙」に例える場合があるが、そこに透かし絵が同時にかかれることを経験主義者達は言及しない。

親孝行という絵を描かせれば、同時に親不孝という透かし絵が生じるのだ(フロイトの言う「エディプス・コンプレックス」)。そういう個人が拡大した国家も自己同一性障害を起こしている。インディアンの殺戮の上に「自由・平和・平等」を持って独立宣言したアメリカ、長年の「甘えの歴史」の上に「ペリー以降の西洋文明」が流入し、「喪失しかけた自己」を「天皇神格化」と「脱亜」で回復しようとして自滅の道を走っていった日本、その例は数え切れないほどである。

「時間と空間の起源」という章で氏はかなり深遠な論を展開する。「時間は悔恨に発し、空間は屈辱に発する」その発想の根底には「無意識の自由性」と「意識の拘束性」がある。動物には現在というスケールしかないが、人間には過去というスケールと過去の設定によって投影された未来が幻想として存在する。

人間は未来を限定される死を恐れるという結果を事実招いているわけだ。復讐や恩返しには決して終わりがないにも関わらず、人間が設定した時間という概念の故に、そこに執着する。宗教からして時間概念で始まっているのだから、時間概念は人類の歴史と共に始まったとしも言える。そんなこと考えてどうする?と言いたいところだが、そう簡単に片付けられないのが心理学ってやつだ。少なくとも社会に迎合した心理学者の論よりは読み応えがあった。
<メモ>
・人類が共同幻想にもとづいて最初につくった集団は家族だった。

・子が親の分身であるというのは幻想である。

・人間が教育されるがままにならないのは、その教育が「人間性本来の傾向」や「本能」に反することを教えているからではない。「真の人間性」などというもの自体が存在しないからだ。

・子どもを白紙だとして、この紙に親孝行という絵を描くと、同時に親不孝という透かし絵を描くことになる。
(これをフロイトはエディプス・コンプレックスと呼んだ)

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