見出し画像

長田弘「なつかしい時間」岩波文庫

風景
私たちは何を見ているのか?クローズアップされた限定的な景色、情報を見て、全体を退けていやしないか?見えないモノを見えるようにした代償として見えるモノが見えなくなってしなってはいないか?パソコンの画面を見ながら、眼前の風景に鈍感になってしまっているのではないか?記憶や言葉、コミュニケーション粗末にしていないか?耳が痛いがあまりにも正鵠を射た言葉だと思った。仕事をしているとき、大事なのは働く人の表情であり、声色のはずなのだ。しかしパソコン画面と対決して人を見ていないことが本当に多くなった。これはあかん!
俺は潮見坂の海を見る時、沈黙の言葉を感じ取っている。そう!そうなのだ。自然に対峙したとき、昔の人間が聞いていたその言葉・・・。その感覚が今あまりにも遠ざかっている・・。

記憶
歴史という記憶を重んじなくなった風潮も今は著しい・・。
かつてフランスの映画監督アラン・レネはパリ国立図書館のドキュメンタリーを撮って「世界のすべての記憶」と名付けたが、記憶とは人間がつくってきた歴史であり、これから作るであろう歴史であり、図書館はその倉庫なのだという考え方がある。
「記憶は過去のものではない。それは、すでに過ぎ去ったもののことではなく、むしろ過ぎ去らなかったもののことだ。留まるのが記憶であり、自分のうちに確かに留まって、自分の現在の土壌となってきたものは、記憶だ。記憶という土の中に種子をまいて、季節の中で手をかけて育てることができなければ、ことばはなかなか実らない。自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭に育っていくものが、人生と呼ばれるものなのだと思う」
まさにその通りであろう。

コミュニケーション
コミュニケーションの窮屈さも問題だ。
「ひたすら是非のみを決めつけようとすれば、どこかで間違えます。そして己の正しさだけを掲げて、是非を違える他者を排する結果にゆきつきます。」
「疲労や倦怠や怒りや諦めに閉ざされてしまうような人生の時間を「静かな悦び」や「朗らかさ」にかえることができたのが、伝説の寒山拾得!(寒山と拾得は唐の時代の伝説の人で、世間の枠に収まらない生き方をした奇人)」
私たちは今、窮屈な思考の中に閉じ込められている。職場の中の思考などはその良い例だろう。知らないうちに、自ら作った枠で限界を作ってたりしないか?

日頃、忘れがちな事に気付かせてくれる貴重な一冊と出会えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?