映画『ドライブマイカー』の感想

ドライブマイカー
これは映画を見ながらリアルタイムでの感想
要点をまとめていっています、その都度感想を書いてます

冒頭
恋愛という男女関係の定義付け、
女は男の中に入り込みたい、それは体だけでなく心理的にもそう。
女は男の家に空き巣に入り、自分のタンポンや下着を男の家に置いて帰る。
男の厳格な母にそのことがばれることを想像すると胸が高鳴る。
→人という生物としての恋愛にもとめる繋がりを定義
肉体的な繋がりと心理的な繋がりは別個で考え、そのどちらも存在してい   る状態を恋愛と定義付け?しかし、西島良い体。
かなりありきたりなテーマな気がするが、この定義付けの部分は深掘るとまだまだ映画として新鮮に撮れることに同意、めちゃくちゃ、特に20代、思春期終わりの小坊主向けに、

アニマアニムスの考え方を学ぼう(ユング心理学)

→嫁音が舞台台本を録音したテープを車で聞きながら、移動中に台本を覚える家福、夫婦の関係を表し、定義に含まれる心理的繋がりを馬うまく暗喩している。物語が進むにつれてこれをいらってくるのだろう

主人公男:家福
嫁:音

朝出張に出かけた家福が引き返し家に戻ると音ががっつり浮気している。それは軽やかなクラッシック音楽と共に

家福は浮気を目撃した後、車でテープ台本と共に読み合わせをしている途中で事故に会う。その後片目緑内障と診断される。
→台本読み合わせ途中に事故、これは家福が感じていたみさきに対する恋愛心理的繋がりの終わりを意味するのだろうな、アホにはよみとれまい

セックス途中お互い何かがおかしいことに察する。心理的繋がりの無い肉体的繋がりの感覚である。音にはそのことについての心当たりがないので、必死に福家を求める。その微睡に福家は自分を悟り、天井一転みつめ。
そして、軽やかなクラッシック。物語構成としてうますぎて冷めるんじゃ!
その後、家福が家を出るまえ玄関で音が今夜大事な話をしてもいい?と一言、もちろんと言い残し家をでる福家
帰宅すると音は倒れており、次シーンで葬儀場、そこには浮気相手のやつおる
→死ぬのよめた

葬儀場のシーンであるが家福は悲しそうではない、

真実はそれほど恐ろしくないの、最も恐ろしいことは  それを知らないままでいること
→ふーん

ドライバー:みさき

遠方で講演2か月間の舞台の出張
そこで家福は自身のアイデンティティである車の中を侵食される状況を余儀なくされる。講演諸々に生じる移動をドライバーのみさきに任せ中ればならない。家福は後部座席に乗車した。みさきが運転中に台本テープを流し、セリフ読み合わせを始めた。

オーディションシーン岡田将生がめっちゃかっこいい
高槻は気合を入れため頬をたたき迫真の演技、普通にキスもする。
福家はキスを見ると思わず止めに入る。
出演者が決定し、みんなで台本の読み合わせのシーン必要以上に遅く読ませる→意味わからん、何かの暗喩であれば読み取れず悔しい、あるものを遅く、みんなに聞かせるということはなにを表す?

みさきは稽古中、外で待っている。家福は車の中で待て寒いだろうというが、みさきは家福が車を大事にしていることがわかるので車では待てないという。家福はそれがわかっているならそれでいい、たばこは外で吸う様に。
→この切り替えしすごい良い。こんなコミュニケーションとれるようになりたい。

高槻は家福を飲みに誘う。高槻はセックスを誰とでもする。家福はしない。この二項対立。
→高槻は肉体関係>心理関係 家福は心理関係>肉体関係
高槻は家福に音について知りたがる。質問する。なれそめなどを聞く。家福は高槻に音のことが好きであると見破る。
隣の席でシャッター音。高槻は客のところまで行き写真を消せと詰め寄る。
家福はそれを嫌がる。

読み合わせのシーン
家福は感情を捨てゆっくり台本を読ませる
高槻は環状込めて台本を読むことが普通と考える

音は車の運転中によそ見
みさきは車の運転中よそ見はしない

家福音夫婦
ユンユナ夫婦
→手話で

助手席:肉体関係
後部座席:心理的関係

たち稽古
本読み稽古

家福とみさきは並列

絡まっているように見えて絡まっていない二項対立は村上春樹の得意技

みさき言葉を話すが感情を他者に読み取られないように
ユナ言葉は離せないが感情を他者に伝える

二項対立からまっとるやんけ、この後わからんようになりそう

家福がみさきの運転をほめる。ブレーキやアクセルがうまく車に乗っている事すら忘れる程だと、その言葉を聞いてみさきは犬のところへ行き犬をなでる。帰り道、みさきから家福に感謝を伝える。
対立関係が片方に寄っていく

「みさきと家福は車の中で会話をする。」
→家福はアイデンティティである車の中で、みさきは会話をして他者と通じ合う。これは二人の関係上、前進を表している。つまりこのシーンは心理的結合を描いている。人間は心理的結合が不可欠な存在であり、肉体的結合の関係が正面にある考え方を痛烈に批判している

翌朝、みさきが運転し後部座席でいつもどおり台本を読み合わせしていると、隣の車線からくる白い車に目をやる。その車の中には運転する高槻とヒロインが助手席に乗っていた。その後、高槻は事故を起こし稽古に遅れる。
→これは、男女の関係をあらわすメタファー映画ではなく
 高槻と家福の二項対立を描きたい映画ということが確定。

家福→みさき
きみはどうして広島に?いや別にいいんだ
→家福が相手についてはじめて質問をする、家福がみさきのことを好きになっていることを表す。いや別にいいんだというのは好きと言う気持ちからくる蛇足なセリフ

みさきが飛んできたフリスビーを投げ返すシーン
→フリスビーは犬との会話手段。犬は飼われており、飼い主はフリスビー投げ返してくれたことに感謝する。
同時にみさきは福家のことを気に入っており話をしする、福家は男やもめでありそれでもなお紳士なところを尊敬している。
このふたつは綺麗な対比にっている。
飼い主:犬 フリスビー
福家:みさき 車
この対立と関係性を焦点している。
直後、みさきは車が好きといい、大事に扱われているのがわかる車を心から大切に思っている。
→ここで重要なのは感謝である。フリスビーを投げた後飼い主から感謝される、対立を読み取ればなぜこの感謝がこのキーテーマの中でとても重要なのかわかるだろう

稽古後、車なのかで待っていたみさきに会話をすると高槻がやってくる。高槻はすこし話がしたいと家福に打診する。車は修理中で家福は高槻を車のなかにいれる。
バーで高槻は分別なく家福に質問を飛ばす。家福は高槻に、「君は自分をコントロールできない、社会人としては失格だが役者としては必ずしも失格ではない、自分を差し出してテキストに答える。テキストが君に問いかけるそれに答えればおのずとそれができる。」と述べる。

高槻は車の中で、僕はからっぽなんですと打ち明ける。
「からっぽだから中身をもとめて音さんの台本にのめりこんだ、今のこの状況も音さんが引き寄せたというのは納得です。」
家福「僕と音の間には4歳の娘がいたが肺炎で亡くなった。その後音は女優をやめ僕はテレビをやめて舞台に戻った。突然音は物語を書き始めた。いや語り始めた。音の最初の物語は僕とのセックスから生まれた。セックスの直後に語り始めた。それを脚本として、賞を取った。彼女はセックスのあとに物語を紡いだ、オーガズムの端から物語を作った。その物語は娘の死を乗り越えるための絆だった。僕たちは相性のよい夫婦だった。生きていくためにお互いに必要としていた。でも音には別に男がいた。彼女は別の男と寝ていた。それは一人じゃない。おそらく彼女の脚本の俳優と、なんにんも。それでも彼女の愛を疑うことは無かった。彼女はすごく自然に愛しながら、僕をうらぎっていた。僕たちは確かに深くつながっていた、しかし彼女の中にどす黒い渦があった。僕は彼女に疑いを聞くことは無かった。それは音を失うのが怖かったからだ」「以後、岡田将生による名演技、映画冒頭の音の紡ぐ物語の続きが語られる」
→メタファー詰め込みパックのシーン。難しすぎる。
高槻「自分の心を覗き、自分の心に上手に折り合いをつけること、他人の心を見たいと思うなら、自分自身を深く真っすぐ見つめるしかない」
→とても重要なシーン、家福は心のつながりを大切にする一方で心に壁を作っている。それは演技の型にも表れている。自分を形成する上でそぎ落とした、他人を心から信頼するということの大切さに自分で向き合おうとしていない。他者を見るなら自分を見ろという言葉の意味である。
音はそんな家福を真に愛しているが心の壁を感じ真の意味で心理的結合を感じてはいなかった。その結果不特定多数と肉体的に交わることになっていた。家福はそんな音の心を端からどす黒い渦と揶揄し、向き合うことは無かった。しかし、それは自分の作る心理的壁から生じるものであった。

高槻をホテルまで見送った後、家福は助手席に席を移し車を出発させる。
家福はみさきにたばこを差し出す。
→自分の安全基地にみさきが入る事を完全に許している。

劇場での稽古
高槻は素晴らしい演技をする。そこに警察が入ってきて、高槻に傷害致死の容疑で連行すると言い放つ。高槻はそれ受け入れ、家福に深いお辞儀をした後、すがすがしい顔で劇場から去る。
→家福 表面的なコントロールが上手く内省的なコントロールができない
高槻 内省的なコントロールが上手く表面的なコントロールができない
音 どちらのコントロールもできる。つまり自由自在に生きられる。
ここでいうコントロールとは自覚自操作のことである。
(そんな音に両者は補う様に惹かれあっていた。これは半分妄想)

家福はみさきに故郷へ案内するように頼む。
その道中、みさきは母を見殺しにした過去を打ち明ける。
家福は音が死んだ日のことを話した。ふたりとも愛する人の死の日の行動を悔やんでいる。

みさきの母にはサチという別人格があった。母はみさきに暴力をふるっていてた。その直後にサチが現れていた。サチは8歳で、純真無垢な存在だった。サチは唯一みさきの友達であった。母は本当に精神病であったのか?サチという人格が作られたものでも、それは心の底からの人格であった気がする。サチという人格は少なくとも母とみさきを繋ぎとめる物であった。
そんなみさきには音が、ありのまま感じられる。音はそういう人だったのである。家福に尋ねる、音さんはそういう人だった家福さんを心から愛していた、多くの男性の身体を求めた、ただそれだけそういう人だった。

家福はその事実に深く傷ついていた。それは気が狂うほどに傷ついていた。そのことと向き合わないように自分に嘘をついていた。自分の本当の感情に素直になるべきだった。だから音を失ってしまった。
僕は今気づいた。音を怒鳴りつけたい。そして僕に謝りたい。会いたい。
取り返しがつかないんだ、どうしようもない。自分に嘘をついていたこと。
生き残った者は死んだ人のことを考え続ける。そうやって生きるべきなんだ。

完璧な人間はおらず贖罪を全うすることこそ福音に繋がる

みさきは頬の傷を治療して犬と共にあの車を運転する。

結論
→恋愛を心理的関係と肉体的関係に分離して考えそれを対立させる。しかしどちらの考え方でも欠損が生じるように人間は作られており、生まれながらに苦であるので贖罪意識を忘れずに生きることを説いている。
最大の意図は
高槻「自分の心を覗き、自分の心に上手に折り合いをつけること、他人の心を見たいと思うなら、自分自身を深く真っすぐ見つめるしかない」
このセリフ。
愛するということには男も女もセックスも関係なく、自分を内省させられることのできる存在に感謝するということである。それはよそ見をせずに真っすぐ前を見て前進することができるようになるための指標であり、その存在は自分を成長させるために不可欠な存在である。そういった人によって自分は罪に向き合うことができるようになる。それは大切なことであり、自分に嘘をついているという状態を自覚させるのに役に立つ。そういったパートナーとは引かれあう引力が生じるらしい。


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