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希望の解釈を切望する絶望フェチ。

私は暗い小説が好きだ。暗い音楽が好きだ。暗い人が好きだ。
自分が暗澹とした気持ちになった時、暗い小説を読みふけって、暗い音楽をループさせ、素敵な闇を抱える人と話す。

ある種の精神的自傷行為と言えるかもしれないが、私はそうは思わない。何故自分の暗い気持ちを更に底へと追い込む暗いものを好むのか。私にとっては暗い気持ちに、溢れんばかりの強い希望の光を、ポジティブというスポットライトが当てられる方が、却って自分を追い込むことになってしまう。外の世界に、自身の暗い気持ちと共鳴する存在が、作品があるのだ、という事実の方が私にとっては安心だ。

加えて、それらの存在は寄り添ってくれないことが慰めでもある。ひねくれものの私は、寄り添う物/者、を理性のフィルターで、―ある種、猜疑心を以って、判断する癖がついているので、気持ちが沈んで判断能力が乏しくなっている状態でこれを行うのはしんどい。寄り添わないというのは私にとっての最大の寄り添うだ。過度に詰めてこない距離感は、とても心地よい。

暗い何かを好んで、理不尽や絶望を摂取しようとする様に名を付けるとしたら、「絶望フェチ」だろうか、とふと頭に浮かぶ。

絶望には希望がついてまわる。極端に言えば、私からすると死にたいというのも、一種の希望だと思っている。消えたい、手放したい、生を手放すことこそに救いがあるという希望。人は希望なしに絶望の中を生き続ける様に設計されていない。当然私もその一人。

私は常に希望の解釈を望んでいる。

何が絶望で、何が希望というのは千差万別。しかし、絶望を引き受け、絶望を飲み込み、絶望を絶え、あるいは絶望に抗おうとする、その先には必ず何かその人ぞれぞれの希望があるはずだ。

私はその過程が切に見たい。絶望する人々が好きなんじゃない。絶望とどう対峙し対処するかという点に目が向く。一人一人がどう希望を解釈するのが見たい。サディストなんかじゃない。生きることは、絶望を防ぐこと、自分ではどうにもならない絶望と対峙すること、その繰り返し。見えている希望を辿る、または見えない希望を自分なりに見出し、前に進むこと、その繰り返し。

絶望・希望の話をすると、「ダンガンロンパ」シリーズの某彼女を思い出す。彼女曰く、「絶望は常に予想外」「希望は常に予定調和」。的を射ていると思う。彼女がすごいのは、最上の絶望のために希望を創り出す。希望を一定時間放置し、泳がせる。この点においては私と真逆の存在だし、そもそも人間やめてるな、とすら思っている。本当の意味での「絶望フェチ」は、彼女だ。

話がそれてしまった。

要するに、私は自分を根暗だと認めた上で、暗い物/者に希望を見出そうとする習性がある。夜空に浮かぶ月が、見えるのか、はたまた雲で隠れているとしたらどこにあるのだろう、と探るように。

絶望の底に落ちていけばいくほど、底があるように見えて、なかったりする。底がない事実に希望を見出す。あるいは、底が見えたとして、足をつけられるのであれば、歩いて行けるという希望がある。

「輪郭のある希望はまやかしだけど、輪郭のない希望は信じられるように思えた。」

なんとなく、過去の私からの言葉で締めくくりたい。



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