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言語化すること

動画サイトを眺めていると、動物の可愛らしいショート動画がたくさん存在する。

表情筋が人間ほど複雑ではないが、微妙な表情の変化や行動によって、喜んで見えたり、悲しんで見えたり、戸惑っているように見えたりする。

小さい頃育ててくれた人間に久しぶりに再会したライオン、手のひらに隠されていると思っていたおやつがなかった時の犬の驚きと信じられないといった表情、飼い主が帰宅すると嬉しそうな猫、他の鳥にヤキモチを妬くオウム…


前後の状況やその動物の様子から、感情を感じ取って、動物に共感したり可愛らしく感じられたりする。

感情を表現する言葉は色々ある。

喜び、怒り、悲しみ、焦り、驚き…

感情というふわっとした概念が、これらの言葉によって枠組みにはまる。
得体の知れないモヤモヤしたものが、はっきりとした輪郭を持っていく。

言語によって、自分からその感情を取り出して、客観視することができる。
遠回しな始まり方になってしまったが、つまり、言語化はとても大事なことなのだ。

本記事では、言語化することについて考察していく。


いつでも正確に言葉にできているのか

我々は、主に言語を用いてコミュニケーションを取る。
だが、いつでも的確に言語化ができているのかというと、そうではない。

「あの時に言われたささいな言葉が、今でもなんだかモヤッとしている。何に引っかかっているのかうまく説明できない。」
「あの時はカッとなって怒ってしまったが、後から思い出すと、あの時自分は悲しかったんだ。」  とか。

筆者にもこのような経験があった。

言葉にする以前に、感情を正しく認知していると思っていても、実は正確に当てはまった認知ができていないことがある。

当たり前のようにできているようで、実はできていない。

養育者が、泣いている子供に、「痛かったね」とか、「その言葉を言われて悲しかったね」とか「悔しかったんだよね」とか言葉をかけて、それに子供が頷く場面を見たことはないだろうか。

そして言葉をかけられた子供は、「ああ、自分は悲しかったのだ」とか「悔しかったのだ」と言語とセットで認知し、感情を表す言語を獲得していく。
こういった、「分かって貰えた」感というのは重要で、言語化されることでスッキリするし安心もする。

子供でなくても、大人でもこれはとても有効なことである。
カウンセリングがまさにそうだ。
ぐちゃぐちゃとしたよく分からない感情が、言葉によって整理されていく。
自分の感情をうまく表現できないと、苦しい。

言語化の面白さ


言語化することの面白さとして、「あるあるネタ」を例に挙げる。
あるあるネタが面白いと感じるのは、自分が感じていたり思っていたりすることが言語化されるからではないか。

ディティールの描写への共感、特徴が言語となって昇華されること、そこには一種の快感が伴うのだろうと思う。
これまで言語化されてきていなかったニッチな領域なら更に、面白さを感じるのだ。
この世の全ての現象に名前が付いていないのは、言語化には労力が伴うためである。自分の考え、感情にはっきりと一致する言葉が見つけるのは意外と大変だ。

似たような例としてモノマネがある。
これは、真似をされる対象の人の特徴が誇張して記号化されることが、面白さに繋がっている。ただモノマネは、言語だけでなく、見た目や仕草などの総合的な部分も面白さに関係しているのだが。

言語化の罠

はっきりと正確に、自分の感情を言語化するのは労力が必要で難しい。
だからこそ、他人の言葉を借りてしまうことは多い。
他人の言葉を借りるのもよいのだが、他人の言葉の中には、自分が実は同意していない、思っていない要素や細かなニュアンスの違いが含まれていることがある。そのまま他人の言葉を使っているうちに、どんどん本来の自分の言葉とは離れていってしまうことがある。
言葉を使うなら、他人の言葉をそのまま使うのではなくてきっちりと自分の中で吟味して使っていきたいものだ。

以上、この記事の言語化をうまくできずに推敲を繰り返し、四苦八苦した筆者の考えである。


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