生きろ、そなたは美しい。

ご存じの方も多いと思うが、筆者が一番好きなジブリ作品である
「もののけ姫」の中で出てくるセリフである。

最近、ふとこの言葉を思い出すことがあり、この言葉の良さをしみじみと感じた。

※作品とは関係のない話になります。※

親友に会って話をしたときのことだ。
その親友が、「生きづらさを抱えている人が友達」という、あるアーティストの言葉に共感したと話していた。
どういうことなのだろう、と少し考えて、すぐに理解した。
筆者も生きづらさを抱えている友人が多い。
実際、この目の前の友人も生きづらさを感じていた。

まず、生きづらさとは何か?
真っ先に思いついたのは、「マイノリティであること」だ。

多くの人には当てはまるそれが、自分には当てはまらないことの生きづらさ。他人の無理解、差別や偏見、居場所がない、孤独感、選択肢がないといったものが挙げられる。

具体的には、セクシュアルマイノリティ、障害、アレルギー、精神疾患、経済的な問題、…色々ある。

多くの人に寛容な社会、多様性を認める社会、そのように変化しつつはあるが、それでもまだ密かに心を痛める人がいる。全ての人を網羅するのは難しいと思う。

身近な例を挙げると、左利きはマイノリティである。この世界は右利きの人が多いので、右利きの人が使いやすいデザインのものが多い。
食事場面での箸のおき方は右利き用だし、駅の改札も右側だ。自動販売機の小銭の投入口も右側だ。

このような日々のちょっとした不便は、左利きである当事者にしか気が付かないのではないか。
右利きの人は使いやすい。そのため違和感に気が付かない。疑問も持つ人は少数派だろう。例えば身近に左利きの人がいて、改めて考えたときにようやく気が付くのではないか。これがマジョリティであることの特権だ。

車いすの人であったら、外出する場所がバリアフリーであるか調べなければならないし、トランスジェンダーの人は多目的トイレがあるかどうかで心持が違うだろう。性別欄が男性と女性の二択を迫られるときは、それに当てはまらない人は心が痛む。食べ物のアレルギーがある人は該当する食物が含まれていないか注意深く見る必要があるし、ヴィーガンの人は植物性のメニューがあるか、対応することはできるのかが店選びの基本となり、選択肢が少ない。(特に日本では)

一般的な人、マジョリティの人といった多くの人は躓かないようなところで苦痛を感じたりするのだ。それが生きづらさだ。
自分はいないことになっているんだな、想定されていないんだなと絶望する。社会的に、本来のあるべき姿を押し付けられて息が苦しくなる。

それでも、この生きづらさを抱えた中でも、人は生きている。
辛さを感じて傷つきながら、考え悩みながら、それぞれ生き延びるための術を身につけて何とか生命活動を維持している。
それってすごく美しいではないか。

多くの人に理解されなくても、世界が自分のことを歓迎していなくても、それでも生きる選択肢をとる人は他にはない力強さがある。
人が集まっていて、白い明かりで統一された大通りにいる人がマジョリティとすると、真っ暗な夜道や路地裏で色とりどりにぽつぽつと、確かに光っているのがマイノリティだなと思う。

どうか、命を絶たないでいて欲しいと思う。
生きろ、そなたは美しい。
そう言葉をかけたい。

自分も、友人も、全ての生きづらい人に向けて。





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