【短編小説】ウルル


 目が覚めたら雪深い山の中にいた。
半身が雪に埋まった状態でうつ伏せになった自身の左手は1メートルはあろう雪の崖だったし、右手は木々が幹をまっすぐ上に伸ばしていた。きっと夏は葉をつけて、光の入らない深い森になる。

 そこはゲレンデのようにひらけた場所だったが、エバはすぐには気づけなかった。
半身が埋まっているが、不思議と動けないほどではない重さの雪を掻き分け、上体を起こす。
緩やかな傾斜の見下ろすすぐ先には、柱とすすきをかけて屋根にしただけの建物が連なっていた。
連なっている、というほど規則性のあるものではなく、人が増えるにつれて端切れを縫い付けるかのように増えていったようだ。

 まずは人の近くにいこうと思った。
腰まである雪は不自然なほど軽く、抵抗はあるが女の力でも前に進めた。
エバは気がつかなかったが、重さだけでなく、冷たさや体温でとけた雪が服に染みてくることもなかった。

 人家はエバが進んだ先からまた1メートルほどの崖の下にあった。
崖とは言っても、こちらも雪が分断して下方に雪崩れ、取り残されたような断面をしている。
少し離れたところから人家を覗くと、屋根と雪の隙間から、その中に人がいるようすが見てとれた。

 まず目に入ったのは、茶色い麻のような布を纏った女が、まるで赤子を包むかのように横向きに寝転んでいるようすだった。
少し離れたところに、胡座をかいてなにかを作っている男の後ろ姿が見える。
雪山であるにも関わらず、壁もない建物に、麻の布を敷いたような床。
明らかに豊かではない様子を見て、エバはその村にこれ以上近づくことをやめた。
空腹感もないエバが、わざわざ今人里に降りる理由もなかったし、家族のような様を見せつけられて、近寄りがたい気持ちになっていた。


 「ユキガミが出たぞ!!!」
突然村の奥から声がして、一斉に人々がエバのいるゲレンデ側に出てきた。
辺りを見渡すと傾斜の上方に真っ白い狼が立っている。
雪に埋まることなく四肢の先まで見える様は重力を感じず、静かに風に揺れる白い毛は光を浴びて銀色にも輝いた。
澄みきった青空のような双眼が静かにこちらを見ている。
それを見た人々が「囲まれた…!」と絶望の声をあげた。

 人々の雪崩れに呑まれるように、エバも雪を掻き分けて上方へ移動していたが、ユキガミに挟まれたことで人の流れは混沌をきたした。
左後方で「ユキグマもいる!!!」と声がしたかと思えば、確かに、腰の高さを優に越えるであろうゲレンデの雪に、白熊の頭がこちらを向いて横たわって埋まっていた。足元は押し固められた雪だが、ユキグマであればその下にも身体を沈ませているかもしれない。それが雪から這いずり出ようとすれば、そこから離れるように人が散る。
「あぁ…っこっちにも!!」
気づけば、ユキガミに挟まれたゲレンデの人々の合間を縫うように、平原のなかにユキグマの頭が見える。額から頬にかけて左目を裂くような、古傷のような模様を持つ精悍な顔立ちのユキグマは、確かにその未だ見えない腕を振り上げられれば人間はひとたまりもないのだろう。
エバには村の方から来ているはずのユキガミは見えなかったが、狼が群れで狩りをする性質上、森のなかを囲むようにそれらが配置されていてもなんの疑問も抱かなかった。



 はっ、と短く息を吸い込んだ。
自らの乱れた呼吸で目が覚める。
先ほどまでリアルなようでリアルではない感覚の中にいた自分が、夢の中だったことに気づく。
あんなに冷静でいた夢の中とは一変、背中には汗が滲んでいたのか冷たさを感じるし、心臓も普段の二倍ほどの早さで跳ねていた。
平たい木の板で囲まれた壁の中、ふかふかとまではいかないが、暖のとれる布団で挟まれて眠れるベッド。
外が吹雪で荒れようとも、すきま風が入ってこない程度には頑丈な作りの家の中、昨夜炊いた火がもうすぐ消えようと燻っている。
部屋も少し冷えてきた。
冷たい床に脚を下ろし、薪を取って暖炉にくべる。
くすぶった火が消えないように、乾いた綿を少し補助として忍ばせれば、その火が薪に移動する。
ぱちぱちと音がし始めたのを確認して、エバはすぐさまベッドへ戻った。

 エバは孤児だ。
孤児は自然への供物、神への貢ぎ物、生け贄として、女盛りのころに山の中へつれられていく。
今までも何度かそのさまを見てきて、単に食いぶち減らしに捨てられているのではなく、本当に供物なのだと感じるようになった。
男の孤児は今までに見たことがないからわからない。

 この村は決して貧しくはない。
山の中、森に囲まれたこの土地は確かに冬は雪深いし、他の村との道も寸断されるけれど、村上方に開けた畑には、春から秋にかけて豊かな実りがあり、山の中に入れば自然の恵みがいくらでも手に入る。
冬への蓄えも溢れんばかりに貯蔵できるし、火を焚いて民家から煙を出しておけば、火を嫌う動物たちは村に近寄ってはこない。
故に孤児でもすきま風ひとつない家に住まわせることができ、畑でできた野菜たちは村のみんなで山分けするため、食べ物に困ることもない。

 数日後、エバの家の前に花冠が置かれた。
明くる朝、供物になることが決まったのである。



 朝陽が白い、まっさらな冬の日の朝だった。
踏み固められた雪は白く固い地面を作り、昨夜降ったであろう雪の分、ほんの数センチだけが、踏み出す度に足の周りを覆った。
エバは村の大人たちに囲まれ、山道に入っていく。
昨日置かれた花冠をつけ、真っ白な足首まであるワンピースを着ている。
ワンピースには細やかな刺繍があしらわれ、見れば見るほど細部にいたるまで華やかだった。
どの村にも通じない、ただ山頂へ向かう獣道だった。
村が見えなくなったころ、エバを囲んでいた村の人達が、さらに山頂方向を指差した。
その先は一人で行けと言う。
エバは人々に深く頭を下げると、ゆっくりと指差された方向に脚を踏み出した。

 これは夢とは違う。
足首に触れる新雪は体温で溶け、ワンピースの裾を濡らしていく。
夏と変わらない衣装のワンピースは、雪深い季節には堪えるものがある。
体は冷えきり震えているが、脚を止めることもできなかった。
このまま体が動かなくなるまで脚を進めるしかないのだと、エバは思っていた。
真っ白な地面に、乱立する木々。
四方を見ても、もう目印などない。
方角があっているのかも自信がなくなってきたが、ひとまず山頂とおぼしき方へ進んでいく。
山頂に向かうにつれて新雪は深くなり、いつの間にか膝丈になっていた。
雪は重くはないが、冷えで脚が上がらない。

 息を吸うのも苦しくなってきた頃、体は腰ほどまで沈みこむようになっていた。
脚は上がらないが、前に進むことはできる。
かじかんだ脚は冷えからくる痛みさえ感じられなくなっていた。
ただひたすらに、前に進む。
思考も停止し、ただ、前に進むだけだ。
エバが進んできた道は、膝を越える新雪辺りまでしかなく、不思議と今エバの後ろに道はない。
すっぽりと腰まで雪に浸かったエバが、ただ目的地の方へ進んでいく。

 ぼおっとした頭で、目に入るものの殆どがが脳に処理されない状態で、ずっと進む先の雪を見ていたエバが、ふと顔を上げた。
腰まで沈むエバの、ちょうど目線の先に、空色に光輝く双眼があった。
それは四肢を深雪の上にそっと乗せて、静かにこちらを見ている。
垂直に延びる木々が乱立するその先に、どこまでも続く雪の先に、確かにそれは、立っていた。

 「ユキガミ、さま…」
震わすことさえできなくなった喉は、その声を発せていたのか、誰にもわからない。
ただ、それがゆっくりと後ろを向いて、エバの先を歩いて行く。
エバはひたすらそれを追う。



 深い雪の季節から、雪解け水流れる緑の季節がきた。
村は今年の豊作に向け、深い雪の下で固められた畑に桑を入れていく。
ふと、山奥の方を見上げる男がいた。
彼はまだ青年と呼ばれる年だったが、ほんの二年前、この村にたどり着き、それから宛がわれた一軒家で暮らしている。
青年はゆったりとした動きで身体を深い山に向け、両手を胸の前で合わせると、ゆっくりと腰を折った。
ゆっくりと、ゆっくりと、頭を下げていった。
それが地面と垂直になると、ゆっくりと10数えるほどその状態のまま目を閉じ、そしてゆっくりと上体を戻し、何事もなかったかのように畑作業に戻った。
男の左目には、額から頬にかけて刃で裂かれたかのような古傷があった。




 

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