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【短編小説】リコリス

 懐かしい街並みに胸が苦しくなる。ここは故郷ではない。
だがしかし、私はこの景色を知っているのだ。

 サリナの手には、先程少年に渡された花がある。
街に入ってしばらく大通りを進んだ辺り、突然目の前に飛び出してきた少年は、私の胸元辺りの背丈しかなく、幼さの中に柔らかな雰囲気のある人だった。
にこっと歯を見せて笑いかけたかと思えば、一輪の花を顔の前に差し出す。
あまりの近さに思わず手をかければ、少年は満足げに離れていった。

 緑色のスッと通った茎の先に、10センチほどの赤い花が咲いている。
細い花びらが、まるで花火のように乱れ付く。
その回りを縁取るように伸びる赤い線が、花を妖艶に魅せる。

 少年は走り去っていった。
もう影も形もない。
人通りの多いここでは、再度見つけることなどできないだろう。

 適当な宿屋に入り、今夜の部屋をとる。
生まれはわからないが、父ではない灰色の髭で覆われた男とずっと旅をして来た。
本人が父ではないというのだからそうなのだろう。
灰色の男はハイドと呼ばれていた。
ハイドとは旅の途中で離れるしかなかったが、私は旅を続けた。
世の女が嫁となり子を成す程の年齢になったのだから、一人旅をしても一人の成人として生きていけるだろうと思ったのだ。
現実はそんなに甘くはなかったが。

 あてがわれた部屋は、ベッドと小さな机があるだけのシンプルなものだった。
背負っていた荷物を机に置き、ベッドに腰かける。
共用の洗面所から一つコップを拝借し、花は窓辺に立て掛けた。
一輪で凛と咲く、不思議な形の花だった。

 その夜、サリナは夢を見た。
王宮の広い廊下に、一人佇んでいる。
こんな立派なところには入ったことがないし、入ったことのある最も立派な建物は数キロ離れた街にあった協会だ。
シスターに一食恵んでもらった。

 これは夢だとすぐに分かった。
周りには誰もいない。
しんと静まり返ったそこは、本来ならばとても居心地の悪さを感じただろう。
目線を下げると、それは上質な生地を身に纏っている。
まるでどこぞの貴族のようで、質素倹約なわたしには不釣り合いだ。
なのに、心はとても落ち着いている。
まるでこれが普段であるかのように。

 廊下を進む。
柔らかなカーペットにすべての足音を吸収され、自らも存在していないかのような静けさだ。
両側を壁と大きなドアで挟まれた空間を抜けると、渡り廊下のように両側が拓けた。
一面の緋がそこに広がっていた。
思わず硬い地面から外れて、その緋に近づく。
スッと通った茎の先に、あの赤い花火があった。

 何の音もなかった世界に、かさりと音が響く。
顔をあげた先には、背を向けた青年が立っていた。
ふとこちらを振り向いた青年は、私と目が合うと、にっと歯を見せて笑った。



 これは協会に伝わる聖歌の一節。
お姫様と庭師の青年の、ひと秋の淡い思い出。

 世界が身分を作ったのであれば、世界を作った神のご意志なのでしょう。
輪廻転生を繰り返す私たちの魂は、今この世界にあるにすぎない。
世界は神がお作りになった。
神は世界が時代を作るのを楽しまれている。
ならば、輪廻の先に、今とは違った身分できっとで会えるでしょう。
神を信じなさい。
神に祈りなさい。
その祈りは輪廻の先で、きっとあなたを導くでしょう。



 廊下をドタドタと走る音が聞こえる。
可愛い孫が、学校帰りに顔を出したらしい。
布団から上半身を起こして、少女の再来を待つ。

 少女は畳に直接座り込んで、学校であった楽しかったこと、悔しかったことを一方的に話す。
そしてふと、窓辺を指差した。

 「おばあちゃん、それ彼岸花っていうんでしょう?何で飾ってるの?」

 窓辺に一輪、凛と咲く花を、彼女は途切れさせたことがない。
花びらが落ちていく様もいとおしげに見つめ、だがそれが全てなくなる前に、いつの間にか新しいそれが飾られている。

 「私のね、運命なのよ」
彼女は花瓶を見つめ、優しく微笑みながら答えた。



 その花の名は、《再会》。



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