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想い「この世に駄作は存在しない。」



私は、主に文芸創作が好きだ。
しかし、ひたすらに文章を書く事も好きだ。
高校生の頃、私は、新聞部だった。
noteクリエイターフェス2023という事で、久しぶりに自分の想いや考えを文章にまとめてみたいと思う。

私の想い。
それは、″この世に駄作は、存在しない。″
という事だ。

【駄作】
出来が悪く、価値が乏しい作品。

こう文章化されると、文芸創作を愛する者としては、改めて胸に突き刺さる辛い言葉である。

前半の″出来が悪く″という言葉について考えたい。
″出来が悪い″という言葉は、あくまでも読み手が、その作品を好きか嫌いか、好みの問題となる。
読み手が作品を好きだと判断すれば、出来は良いと判断されるし、読み手が作品を苦手、或いは嫌いだと判断すれば、出来が悪くなる。
作品の好みは、読み手によって、意見が分かれる。
ある人にとっては、良作だが、ある人にとっては、駄作となる。
人間の意見は、必ず分かれる。
多数決を採れば、全員一致は、余程の事がない限り、生まれない。
特に、文学作品や創作物は、読み手の感性により無限の解釈ができるので、読者全員の意見が一致しにくいという背景がある。
(例え、読者全員で、丁寧に読解したとしても、その作品が個人的に、好きか嫌いかで好みが分かれると思うので、同じ結論に至ると考える。)
そう考えると、作品自体を″出来が悪い″と断言する事は、不可能に近いのではないかと仮定できる。

後半部分の″価値が乏しい″という言葉について考えたい。
創作物の価値とは、恐らく、読者がその創作物を読んで、感動したか、或いは感銘を受けたかという事ではないだろうか…。
こちらの部分は、読者の感受性、感性、読解力等に委ねられる事となる。
逆を言えば、どんなに優れた作品でも、読者が作品を読み解く知識や感受性、感性を持ち合わせていなければ、作品の価値が伝わらずに、駄作と判断されてしまうかもしれない。
もし作品が時代の先取りをした斬新なアイデアによって書かれたものだとしたら、今の時代では、難解な駄作と判断されたとしても、未来では、非常に優れた良作だと作品の価値も変わるかもしれない。
価値感は、人それぞれに違うものである。
こちらの部分も、″価値が乏しい″と言い切る事は、現段階では、非常に難しいのではないかと思う。

例えばの話である。

(物凄く極端な例ではあるが…。)

ここに詩「あ」という作品があるとする。

詩「あ」
あ。

これで、終わりである。
内容は、「あ」という一文字しかない。
こちらの作品は、″駄作″なのかを考える。

考察①
文字一文字だと何が言いたいのか読者に、明確に伝わってこないと判断したケース。
読者が作者の表現力が乏しいと判断したので、駄作となる。

考察②
読者が創作時の作者の年齢が低かったと判断したケース。
いくら作者が表現をしたくても、言葉を知らなかったので、あ。としか表現できなかったと考える。
このあ。という一文字に読者が作者の悲哀を感じたら、良作というジャッジをくだすかもしれない。

考察③
読者が作者の年齢が高く、敢えてこの様な表現をしたと判断したケース。
この世には、様々な言葉があるにも関わらず、この様な詩を書いた事は、何か意味があると考える。
この一文字は、読者の今の気持ちを共鳴させる為の仕掛けと考え、読んだ自分のその日の気持ちによって、あ。の意味が変わってくると解釈すれば、この作品を深いと考える読者が出てくるかもしれない。
そう判断されたら、この作品は、良作となる。

このケースで分かったこと。
それは、優秀な読者がいれば、駄作はこの世に存在しない可能性が高いということ。
逆に、読者が作品から何も読み取る事が出来なければ、作者の意図や作品の持ち味は、永遠に、誰にも理解されないままで終わってしまうだろう。

私は、思う。
この世に作品を生み出す事自体に価値があり、作品が駄作か良作かは、あまり意味がないという事だ。
素晴らしい読者がいれば、作者自身が駄作と判断した作品でも、良作になるかもしれないのだ。

優秀な読者がいる限り、この世に駄作は存在しない。
優秀な読者とは、特に感性が優れている読者というよりも、文章が好き、文章を読む事が好きな読者だと言える。
そういう読者は、文章を逆撫でして読むし、深い意味を考えてくれる。

文学を愛する者がいる限り、この世に駄作は存在しない。
私は、そう信じている。

noteさんに集うクリエイターの方々は、恐れる事なく、創作に没頭し、作品を発表する事に意味があると私は考える。
そして、私自身も、そんなクリエイターの一人でありたいと昨今身に沁みて思うのである。











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