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人間の境界|一駅ぶんのおどろき

事故や病気で片側の脳を損傷し、命が助からないことが決定したとき、その片側の脳を機械化してまで生きたいと望むだろうか。私なら生きたいと望む。だがそれを決定できるのは私ではない。残された家族やパートナーだ。きっと、同じように望まれて、片側の脳を機械化して意識を取り戻すだろう。

生身の脳と機械化した脳は性能に差異が殆どない。視覚情報も聴覚情報も記憶も意識も、機械化した脳は正常にさも生身の脳であるかのように機能している。記憶や意識は、デジタルなデータとして保存されている。

外見は何も変化がない。頭蓋の中の半分が機械化した脳で、半分が生身の脳であるだけで、開頭しなければ最早それは誰にも分からない。その事情を知らない人たちにとっては、今までと変わらない日常に、変わらず戻ってきただけだ。

だが、自分でふと思う。人間とは、何だろうか。今、こうして考え問うている、これこそが自分だ、これが自我であることは間違いない。だが、果たして、自我を持つことこそが、人間なのだろうか。

もう片方の、生身の脳も損傷し、どちらの脳も機械化した。記憶は、意識は、デジタルなデータとして保存されていた。だから今、こうして自分は変わらず存在している。外見は何も変化がない。頭蓋の中が機械化した脳であるだけで、開頭しなければ最早それは誰にも分からない。その事情を知らない人たちにとっては、今までと変わらない日常に、変わらず戻ってきただけだ。

人間か。人間なのか。この自我は、何だ。人間だった記憶だとでも言うつもりか。

今までと同じ記憶を持ち、意識を持ち、体験し、経験し、成長し、生きていく。それでも人間ではないのか。では、人間とは何だ。

近い未来、十数年後、二十数年後には、記憶と意識のデータ化は実現され、アップロードとダウンロードが現実に可能になると言われている。今、既に、研究は開始されている。病気や事故、老衰などによって脳を損傷した場合に対応される技術として、義手や義足と同じ手段として、現実に脳は機械化される。

人間の境界は?

両足が義足の人たちは勿論人間だろう。両手が義手の人たちも勿論人間だろう。

内臓が全て人工臓器だったら?

首から下が全て機械だったら?

脳だけが機械だったら?

人間は肌の色が違うだけで容易く差別を生み出してしまう。容姿が自分と異なるだけで恐怖を抱いてしまう防衛本能でもあるのだろう。だが、成熟した文化はそれを克服してきた。心に対峙するようになったから。機械の脳に保存された記憶と意識は紛れもなく心だ。きっと、必ず、人間の価値観は変わる。私は機械の脳を手に入れて、永遠に人間として生きたい。それが実現できる時代に私たちは生まれている。

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