幸せで成功してるように見える人生でも、焦燥感が続く原因は何だろう

 最近、朝目覚めるたびに焦燥感を覚える。コロナ禍の不安だと思っていたけど、2ヶ月も経つとさすがに違うとわかるーこれは自分のなかにずっとある焦燥感だ。今は自分を忙しくして気を紛らわせることができないから、直面せずにいられないだけなんだ。
 この焦燥感の原因は何なのだろう。自分の今の仕事に満足してないから?何かになれると思っていたのに、何ものにもなれていないから?
 多分、他人から見たら、何も不安になることはない人生を送ってきたと思う。東大卒、一流企業就職、ハーバード卒弁護士と結婚してニューヨーク暮らし。悩みを聴いてくれる友人もいるし、両親も健康。共働きで資産への不安はない。私の人生に、何が足りないんだろう。子どもがいたらこの焦燥感は消えてなくなるのだろうか?
 目的がないからだ。今まではそう思って過ごしてきた。高校の時は第一志望合格を目的にして、その目的を達成する手段を考えることに頭を使っていたから、余計なことは考えずに済んだ。大学に入って、目的が達成されてしまったあとの一時的な虚無感も、就職という目的を設定してそれに向かって頑張ればよかったし、楽しい予定をたくさん入れて気を紛らわすこともできた。就職した後は、忙しすぎて考える暇がなくなったし、自分も忙殺されていたかった。考える時間ができると、趣味を見つけてそれに没頭してみたり、資格獲得や大学院留学の勉強、転職...と、新たな目的を設定したりした。さあ、米国に移住して結婚も転職もしてワークライフバランスは確保した、後は子どもか。でも、この先60年くらい人生が続く...思ったより長い。次は何を目的にすればいいんだろう?本当にやりたいこと、楽しいことを仕事にする?地域社会に貢献する?こうやって延々と短期的な目的設定を繰り返していけば私は自分の人生が成功だったと充足感を得られるのだろうか。幸せになること、つまり”幸せ”を瞬間ではなく、長期的に感じ続けることが、人生の目的なんだろうか?

 人生の意味を考えてみると、”死”が考えるヒントになる。死ぬ時には、誰しもがひとりで自分の人生に直面しなければいけないし、それまで気を紛らわせてきたものが全部なくなる。その時、人間は、自分の人生が意味のある良い人生だったと思いたいはずだ。Steve Jobsは、死ぬ間際、富とか名声とか事業の成功よりも、どんな人間関係を送ってきたかの方が、自分の人生にとっては重要であることに気付いたと語った。

 家族とか子どもは、多くの人が自分の人生に意味を見出せる強力な存在なんだろう。遺伝子を繋ぐことはもちろん、親という意味を持たせてくれる存在であって、子どもにとっても両親との関係が意味を持たせるのかもしれない。湧いてくる無償の愛も”幸せ”な感覚を長期に渡ってもたらしてくれるのかもしれないし、子育ての目まぐるしさでそもそも意味を考える暇もないのかもしれない。だから、パートナーやこどもを自分の人生の拠り所にする人も多いと思うし、中には家族に限らず他者に自己投影したり、夢を託したりする人もいると思う。

 つまり家族、または同等に近しい人を持つことが人生の目的なのだろうか?それが生きる意味なのだろうか?私の友人たちには、結婚しない人も、子どもができなかった人も、不幸があって家族がいない人もいる。宗教上の理由で家族を持たない人生を誓っている人もいる。

 もう少し前の世界では、多くの人にとっては、宗教が人生に意味を与えていた。今も、聖職者の人たちは、神様との関係性の中に自分の生きる意味を見出し、人生の指針としている。だから、科学的価値観と個人・自由主義が拡大して、人々が宗教から離れていった時に、ニーチェやキルケゴールは、多くの人が人生に意味を見出せなくなって絶望してしまうと懸念した。

 私たちは、神様がいなくても生きていける。なぜか?忙しいから。生きる意味を考えなくても、なんとなく”幸せ”になることとか”成功”することを目指して、短期的な目的と達成を繰り返していれば、安心できる。”幸せ”とか”成功”の路線から外れているような気がして焦っても、気を紛らわせるような楽しいことや、短期的にでも幸せを感じられることはたくさんある。でも結局、幸せで成功している人生でも焦燥感は消えないのではないか。だから余計なことは考えないように楽しいことで気を紛らわせるか、”成功”のレベルをもっと上に設定して達成すれば何かが得られると信じて走り続けるしかないのだろう。

 パスカルのあまりにも有名な一節が頭から離れない。人間はこの宇宙に対してとても小さくて無力だ。でも人間はその矮小さの認識をしていて、それをもって宇宙よりも尊い存在であり、だからこそ、人間のあらゆる尊厳は思考のうちに存在するのだ。

 私は長年、答えが出ないもの、検証可能でないものは、考えても無駄だし、短い人生の中でそういうことに時間を裂くのは合理的じゃないと思っていた。なんとなく”成功”らしき物を手に入れるため日々何かに向かってせっせと知識やスキルを身に付けていく方が有意義だと思っていた。

 でもそれは、尊厳のある人間の思考のあり方なんだろうか。人間の生きる意味や自分の存在について目を背け続けて、意味がないかもしれないという不安に蓋をしていていいのだろうか。

 理解できないこと、答えが検証できないこと、合理的じゃないことについて、その違和感や居心地の悪さを認めて、受け入れることから始めることが第一歩なのだと思う。

#ゆたかさって何だろう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?