『鍋島直正』幕末最強の佐賀藩を作り、日本の近代化を推し進め、新政府に多くの人材を送り込んだ名君
「佐賀県の偉人を紹介する」と考えた際、1番最初に紹介すべきだと思った偉人。
それが、今回紹介する鍋島直正公です。
1.『鍋島直正公』とは?
直正公は、財政が逼迫していた佐賀藩を立て直し、幕末最強とも言われる軍事力を持つ藩にした名君です。直正公は佐賀の七賢人の一人でもあります。
佐賀藩は長崎の出島から海外の動きを真っ先に知ることができたため、直正公は欧米諸国に対抗するために科学技術力ひいては軍事力の増強が必要性を感じ、藩の改革を断行しました。
その結果、藩の科学技術力は大きく向上し、医療技術の進歩や軍事力の増強にも成功しています。
そして何よりも教育制度が素晴らしく、幕末に多くの偉人を排出する基礎を作りました。
幕末の佐賀出身の偉人の多くは、直正公が整備した学校で学んだ人たちです。つまり、明治維新後の日本を作る基礎となった人物の多くを育成した重要な人物と言えるのです。
2.直正公があまり有名でない理由
直正公は、薩長と幕府との争いには参加せず、ひたすらに自国である佐賀藩の内政に集中した大名です。
幕府を倒した藩は「薩長土肥」と言われていますが、佐賀藩(肥前藩)が参加したのは戊辰戦争で薩長が勝利した後です。つまり、薩長の勝利がほぼ確定した段階での参戦なのです。
それは、薩長の勝利がほぼ確定し、幕府側が新政府に恭順の意を示したことで内戦が拡大しないことを見極めてからの参戦だったと言われています。
そして、戊辰戦争の3年後に直正公は58歳で亡くなってしまいます。
このように中央からは一歩離れた立ち位置に居たため、直正公はあまり有名ではないのだと思います。
3.佐賀藩、驚異の先進性!
しかし、佐賀藩が幕末において最も進んでいたというのは間違いありません。
なぜならば、欧米諸国に対抗するために鉄製大砲を自国で作ることを目標とし、それを実現。
さらに、蒸気船を海外から多数購入して、実用的な蒸気船「凌風丸」を自分の藩だけで完成させています。
また、自分の息子に進んで種痘させるなど、医療技術の発展にも寄与しました。
このように、日本が近代化を進める上での基礎を作った人物とも言えると思います。
4.さいごに
鍋島直正公の偉業は、この記事だけでは書ききれないほど多くあります。
興味のある方は、実際に調べてみると面白いかもしれません。