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ノベル『銀座で、会いましょう』

 

 作家は、四月の桜の満開を過ぎた、最高気温二十℃を越す快晴の日曜日に、銀座へ出掛けた。能楽を観劇する為である。
 渋谷松濤にあった観世能楽堂が、銀座に移転してはや一周年を過ぎた。GINZA SIXの地下に多目的ホールがあって、その空間に能楽堂は収まる。
 作家は、老境にさしかかる人気作家である。彼女は、大学の芸術学科を卒業して広告業界へ入る。その八十年代を広告が席巻した。その頃、コピーがマーケッティングの社会的要請をもろに受けて、大衆消費の理論と実践が抜き差しならないほどに隆盛となった。
 作家は売れた。小説は通俗でも大衆でも何でもいい。自由で民主の政治体制において商業の成功が一番である。売れるから素晴らしい。
 彼女は人気あるが故に週刊雑誌に身辺雑記コラムの連載を持つ。我が世の春、センテンスの春である。いままさに時節は桜舞い散る四月馬鹿の翌日の日曜日である。
 ここ銀座六丁目は歩行者天国である。道路の中央に散在するパラソルが風に靡く。目に付くTシャツ姿が逆に羨ましい。もはや春どころではない暑いくらいの気温なのだ。解放感も高温と連関すらあるのだろう。気分も上々である。観光地も多国籍のさまざまな人間が溢れてこそなのだが。まだビキニやビーチボールは早かった。それでももうすこしすれば灼熱のビーチとなる。露出を競う季節も間近なのだ。
 観光の間合いの悪さ。スマートフォンを翳してインスタントにコンビーニエンス。お気軽な利便の多種多様、大多数のマスは益々増長していく。それでも気分は上々、だからこそ官能も高めよ。もっと露出も激しく。そろそろビキニそしてハイレグのグラマラスなビーナスも出現間近である。彼女たちはエロティックな自分に酔う。自己陶酔すればいい。ブラもパンティも歯がゆいほど邪魔な筈だ。
 四丁目交差点辺りでも車が不在をいいことに歩行者がまるで王将を蔑ろにする歩兵の如く歩き回る。白昼堂々のランダムウォークである。風景の中で美を感じるのか、撮影者の恍惚が滲む。彼らの脳髄すら暑い陽光に干上がってぷりぷりの浅利がわんさか掘り出される。

 間隙の合間を縫って、観劇へ向かう感激が、作家にはあった。老境差し掛かって耐性も堪忍も驚くべき低下なのだが、作家は来週号のエッセイーの取材も兼ねた、この銀座・能楽観劇である。しかも恋人と観劇する。感激の銀座であった。
 作家には愛人がいた。感激を露わに観劇する観劇はここSIXだった。SEXでもいい。SIXだっていい。なのにSAXさえも・・。
 アルトサックスを吹く音大女子大生を作家は小説を書く如く刻苦精励愛した。文学の新たな展開を音楽、つまり楽器演奏に見出そうという。しかも今日は能楽まで観劇して愛人をも感激するという。

 出会いはシンプルだった。ある日の音楽会で隣の席にアルトサックス奏者・森美智子が座った。作家は彼女の若さ、美貌、可憐さ、冷徹さ、つまり自分にない資質、しかも芸術的な豊饒の横溢さに嫉妬しながら惹かれた。隣り合わせの愛のテロルに遭遇したのである。

 森美智子は音楽一家の次女である。母親がボーカル、父親がギターのロックバンドの一家であった。父親の薦めでアルトサックスを中学校から吹き始めた。姉はキーボードを演奏し、作曲も編曲もする。姉の恋人はベースである。恋の低音は抜群だ。
 母は八十年代のガールズバンドの影響をモロ受けた。あの頃のバンドは自己主張の強いキュート系ガールが恋人の作る愛の曲をハスキーに歌った。自然な成り行きでギタリストと恋に墜ちた。母の願いは家族でバンドを結成することだった。
 美智子のアルトサックスは母早智子のボーカルとコラボを目指す。アルトサックスは女性ボーカルに素晴らしく親和する音域であった。しかも楽器の演奏が実に簡単なのだ。美智子のサックスはロックでもある。ハードなガールズロック、しかもアニマルの野獣さと清純なエロスも奏でてしまう。早智子は美智子の才能を見極めたかった。だから音大へ進学させた。サックスはボーカルと凄く親和する。早智子にとって美智子はサックスだったのである。

 現代に能楽である。しかも音楽は甦る。音楽も文学も能楽からその表現様式を学んでも良かった。室町時代からの観世流儀である。
 芸術はその伝統と継承を何百年にも渡って継続する、それこそ芸術論の一等最高の文学である。しかも無形だからこその「国宝」という認定が如何に国家行政官僚制に帰するとしても、芸術こそ国家権力の絶大なる庇護のもとその台風の目の中で芸を磨き上げる以外にはない。無形の精神性こそ、その強かな戦略こそが芸を聖域にする。大衆から遊離してこそ有利な展開が可能となる。芸事の如何に貴族志向かは歴史も証明する。
 しかし美の継承はそれほどに反価値でも反道徳でもない。

 作家はサックスを吹き始めた。籠絡するためにも敢えて音大生にレッスンを受けている。
 寵愛しながら寵愛を受けるこの関係が好き。美智子の全てを知りたいの。だからだから、このわたくしが裸になって飛び込むの。
 一方的な行為や行動の全てが嫌になる達観の世代に作家自身も突入して久しい。だから学びたい。だから愛してもらいたい。愛してもいいのではないか。
 礼儀を重んじる美智子のサックスレッスンである。師匠美智子は平気で年長の弟子を叱った。叱責どころか擲る蹴るも頻繁である。
 しかしながら作家が初めに自ら望んだ。やっているうちに美智子も味を占めた。もう病み付きである。
 堕落の終焉である。作家は終ぞご機嫌取りに囲まれてノウノウと物書きを続けていた。ずーっと「先生、先生」と呼ばれた。それなのに呆れたことに美智子から理不尽な暴行すら甘んじて受けたのである。自ら進んで悦びながら。レッスンはとても厳しい。当たり前である。稽古は限界を超えなければならない。限界は必死の懸命があってこそ限界突破できる。手加減や甘えなど以ての外なのだ。
 学びの関係にその師弟というか師妹の関係にこそ愛の厳密な形があるのではないか。
 遅ればせながら作家は思い知る。いいの。これでいいの。
 サックスを吹きながらシックスを歩きたい。
 これから作家は能楽を観劇する。感激の間隙である。美智子と姦淫してもいいほどだった。シックスでサックス。なんていい響きなの。

 シックスは銀座の空気を流し込んでそのまま吹き出す。街の匂いや香りは集まってくる人間の匂いや薫りである。何故彼らは集まってくるのか。しかも予感と期待に満ちる。街の歴史や記憶がその瞬間、その場所で芳しく匂い立っているからか。全世界が今や日本の東京しかもここ銀座を目指す。金でも銅でもない銀なのだ。銀座ナウ。

 作家は美智子に会う前にプレゼントを買い求めようという。人気作家にありがちな良好なる出版社との絆においても甘味な介在物が有効なのは作家の奸智の為せる業ですらあった。業と技。無意識から来るどうしようもない事態と作意と意図の合理的帰結の事態。
 でも作家は小説すら書いている。身辺雑記の雑文もお手の物だが本業は小説作家である。ナイキなんて履かない。ナイキなんて履いて走らない。歩いてばかり。銀座もぶらつく程度だったけど。美智子が言うから。

「ねぇ先生、銀座で能楽を観劇しましょう」
「えぇ?感激?あぁ観劇の・・」
「能楽を観劇したいの。ねぇ先生」
 願ってもない。飛んで火にいる。風流や純文学でもないけど。このわたくしが物書きとして絶大なる人気を博しているその理由は「読者の気持ち」に寄り添っているからなの。
 怒らしたり、嫉ましたり、そりゃぁもう忙しいの。
 じらしたり漏らしたりそりゃぁもう大変なの。
 ファンサービスが大事ってそりぁ言うはやすしよ。きよしでもいいわ。まるでクリスマスよ。「センメリ」好きでもないけど。
「いいわよ。美智子、行きましょう。能楽のうがく。東京農学部?」
「先生、面白いんですか?自分でギャグって」
「ふん。わたくしはさぁ作家の前にひとりの女なの。大好きなあなたに甘えたっていいんだわ。ねぇ美智子、欲しくなっちゃった」
「だめ。だめ。先生、甘えないで下さい」
「ふんだぁ。ぷりぷり」

 全く。機嫌とらなきゃ。ショコラショコラ。生チョコで蕩けさせちゃおっと。美智子って生が好きだけど・・それは多分、わたくしの影響も大いにあるわね。いつもいつも生だけだったの。生でしかなかったから。
 レアでなきゃ。リアルにだってなれない。生なま生なま。あぅ美智子欲しいわぁ。あうぅぁぁあ。

 銀座シックスの階段を下る作家である。小学校の教員のように地味な服装その外貌である。外見なんか気にしてなんかいない。
 でも作家は思う。女はとかく美しい方がいい。そんなの嘘だわ。
 美は飼い慣らされてこそ。
 でもわたくしは女の薄っぺらな美ってのが嫌いなの。男本意の男専権の烏滸がましさってあるんだわ。ちくしょーぅ。ひゃくしょーぉ。

 男とすれ違う。ダウンジャケットを着込んでいる。
 作家はすれ違い様、男の視線に泳ぐ。媚態と言って良かった。異性に気づく作家の勘である。恋人との逢瀬の餞のプレゼントを購いたい一心だった作家のこころの妙を掬い取る眼差しだったの。
 まるで真冬じゃないの。この男・・。桜とか見てないわね。無粋だわ。本当に逝かれてる・・。お前はもはや死んでいる・・。でも・・粋かも。逝きかも、あぅ。
 男には連れがいた。ヘアスタイルを整えたばかりの女である。観劇に連れ立ちでもあるのだけれど・・。
 違わないわよ。わたくしだって美智子がいたの。早く早く。ねぇ美智子・・能楽観劇したら・・ホテルに行くわよ。ねぇ。

「ねぇ、小林理津子」
「ぇえ?はやし・・」
 階段を二三段上がって先に行く麻美のセーターの背中をタッチする藤下達成である。
 能楽の文学的効用もさることながらあらゆる芸事への問題意識の源泉に通じるサムシングを感じるならば。能楽のエッセンスをくみ取るべきであるらしい。
 チェロすら奏でる麻美にとって能楽はバロック音楽への感興と相通じる深い情感もある。達成にとっては全てが小説への学びであった。そして出版権力サイドで今一番権勢を保持するこの女作家を目の当たりにした。
 麻美も達成も小学校教員然とした老境の女を見やる。その瞬間、小林理津子は突如、ふり返った。
「あぁ!」
 小さな叫び。二人して顔を背けた。そして階段へ粛然と向かう。
「ねぇ何だか老けちゃったなぁ」
「そりゃそうだよ」

 能楽堂のSS席の最後列に理津子と美智子は座った。周囲憚ることなく堂々としている。美智子のタイトスカートの真ん中に掌を乗せてゆっくり上下左右にアトランダムなさすりを続ける。
 サックス吹かなくても女優だってできちゃうなぁ美智子・・。
「ねぇわたくしの小説でデビューしてみる?」
「先生、ったらぁ。女優なんか嫌よ。サックス吹くの」

 理津子は全然、マスコミを恐れない。今の瞬間、スマホで連写されても気にも留めない。逆に美智子との秘事が暴かれ公然の仲として社会的に認知でもされた方が・・ますます作家冥利の展開となって・・姥桜も満開なんだわ。
「ねぇ姥捨山って能・・凄いわね」
「先生、女の一生をパースペクティブに文学でもある能が表現するんです」
「凄いわね。美智子・・音楽だけじゃなくて・・」
 小憎たらしい美智子のパンティをはぐる。蒸れ出る常軌を逸した熱々のジュレが・・凄いわぁ。
「熱い」
「あっダメです。ぁはぁぁ」
 サックスなんかいらないじゃない。もぉ美智子サックスなんだもの。こっちまで感じちゃう・・。姥桜うば桜ぁ。

 達成は麻美と別れて自分の指定席を探した。三列の二十七番・・。柱が正面にある。舞台の壁には松と竹がまるで巨大な銭湯の富士山の絵のように存在感たっぷり描かれている。
 場内を見渡す。
 高齢者が多いなぁ。もう何年もしないうちにこの半分もいないのかな。
 達成のこれまでの人生で・・能って全くNOって洒落でもないんでもなくて。ふぅー。感慨感慨。うんぅ?
 達成は確認した。あそこにいたいた。小学校教員の小林理津子である。となりの素晴らしくエロな達成好みのセクシーな美人ガールを貪っている。自分の小説のファンとお忍びというでもない派手な姦淫をこんな厳粛極まりない能楽堂の一等席でおっぱじめているなんて・・姦淫万歳かよ。
 凄いな、作家先生・・いつもケイタイするCANO IXYで望遠機能をメイいっぱい稼働させてシャッター連写した。
 すかさず撮り終えた画像を再生する。おやおや。お盛んな先生だこと。衆人環視の一望する風景の何とまぁ楽しきこと、計り無し。

 三島由紀夫が現代に甦って今この瞬間の藤下達成と同じ立ち位置同じ政治的状況にいたならば、後日「仮面の告白」でも「宴のあと」でも「午後の曳航」でも「豊饒の海」でもなくて、「禁色」の後編のような発展的解消すらの短編小説を書いたかも知れない。

「許色」とでも題して・・。

 色情欲張りの老境に達しても尚未だ衰えない創作意欲のコインの裏側である変態性欲のコアなるエナジーに翻弄される女流作家森真理という作家・小林理津子をオマージュした作家が主人公である。
 長編小説「禁色」の裏側反対小説なのだからそのまま対立概念を敷衍援用してありのままメカニカルに書き上げてもよかった。
 でもそれでは銀座らしくもないし、まして大人気作家である小林理津子に対しても不遜無礼であろう。
 しかし小説は反道徳であってもいっこうに構わない。創造は想像力によって育まれる。実社会の枠を軽々逸脱する人間の内的自由世界の創造作品であるが故の自由なのだが、大衆社会は消費社会でもあって利潤獲得の根本原理がその相反となる可能性も高い。すべからく快楽原理が行き届く。女性の反撃もある。性を蹂躙してきた今までの文芸作品への敵視が露骨になってきた。エロ規制である。しかも規制するそのそれ自体の拡張する恣意性が過剰を煽る。規制の規制が常態化すればエスカレーションも事前となって自粛自己規制へとなる。
 健全なエロ自体が規制のベクトルそのものだからもう既に自由はない。自由なき表現の顛末は悲しい。さようならエロ。ごきげんよう。

 美智子は呻いた。旺盛な創作活動に、である。貪欲な好奇心はやがて野放図なまでの執筆を開始する。理津子は紙と鉛筆さえあれば小説が書けるのだが、いまこの瞬間は美智子が、原稿用紙そのものとなっていた。指先にペン先の横溢、インクまで滲ませて心専一の妄念を深める。
 美智子はまさにまな板の上の鯉さながら、作家先生の情念を憑依させて写し取って自分のサックス演奏に貢献させたい。自分で自分を鼓舞するように作家先生の文学性のクレイジーな情念を貰い受けるの。
 今まで美智子は母から百合ゆりの関係になって今もまだ永続可能性大なのだが、ボーカルを突き詰めてサックスになったのか。音楽の快楽が自然と二人の母娘を関係ごと引っ張り込んだのか。

「だめよ!美智子!もっと歌うの!もっともっと!歌がなきゃ歌なの、歌って歌って!吹きなさい。吹き上げるのよ!」
 母は娘のカラダごとサックスとして吹き上げる。感性の極限を目指してその極致の果てに・・サックス、そして娘美智子があったの。

「ねぇ美智子、歌うの。もっともっと!」

 正直、超負担だった。気も狂う音楽の鬼。ママ、ちょっと重たい。歌ばっかり。歌ってばっかり。歌の前に何か足りない。歌の前に何かあるはず。サックスとわたし・・。楽器と娘。母とサックス。

「開演五分でございます・・」

 暗転する照明の篝火・・。音声はクリアである。新品新調されて音声までピカピカである。息づく能楽堂の静寂。
 防犯が昨今殊の外喧しい。
 五月蠅い。しずかにしたまえ。外国人も多い。
 銀座の国際性、その未来性に能楽はどう応えていくのか。数百年の歴史も今この瞬間にも・・破滅する兆しもある。

 全ての芸術は生命現象である。生きとし生きる。
 小林理津子の文学も永遠の筈である。テクストの永遠。

 美智子は仰け反った。滴が散った。

 開演である。
                             (了)

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