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003.5Lab|二関剛|CURRYgraphy

フラスコに飾られたスパイスや豆たち

 西荻窪というのは不思議な街だ。古い木造の飲み屋街があるかと思えば、ネオ台湾屋台があったり、いつの間にかカレー屋さんがいっぱいになっていたり。
 8年前、就職した先の仲良しの先輩が、仕事を辞めて絶食道場へ修行に出かけると言い出した。その間西荻窪のアパートを格安で貸してくれるというので、初めてのひとり暮らしを開始。その後、先輩はふらりと訪れたマルタ島で人生の伴侶となるドイツ人に出会いアパートは引き払われた。始まりも終わりも突然だったけど、私は西荻窪生活がすっかり気に入って、その後もずっとこの街に住み続けている。
 西荻窪の好きなところは、パン屋さんと古本屋さんが多いところ、飲み屋が充実していることろ、電車に乗らずに銭湯に行けるところ、駅直結の大きな西友が24時間営業なところ。春には桜が満開の小さな公園があって、夏の朝にはカモが泳ぐ池があって、秋には真っ赤な紅葉の下でピクニックができて、冬の寒い日には純喫茶で暖を採れるところ。
 そしてついに、大好きなカレー屋さんが加わったというのだから大事件。その名も5Lab(ゴラボ)。本日は店主の二関剛さんにお話を伺った。


月曜日はカレーの日

 二関シェフのお父様の職場が赤坂にあった頃、今は無き『THE TAJ(ザ・タージ)』にしょっちゅう通ったそう。つまり小さい頃から、現・大森マシャールのモハメド・フセインさんのお料理を食べていたということであり、素晴らしい英才教育だ。また、海外出張も多い父の影響で、外国料理にも幼少期から慣れ親しんでいたという。
 そんな子ども時代はじっとしていられない性格で、何かをやると決めたらのめりこむタイプだった。中一で腰を痛めるまでは、サッカーに夢中。16~7歳の頃には料理に興味を持ち、毎週月曜日は家族の食事当番としてカレーを作る日々。はじめはルウカレーを作るだけだったが、隠し味をいれたり、スパイスに興味を持ったりするうち、そもそもカレーがどうやって作られるのか気になってきた。
 カレー=インドと興味の幅が広がり、19~20歳の頃にインドでホームステイを敢行。カレーを食べることを目的に出発したものの、外は危険だからとなかなか外出はさせてもらえなかった。その分ホームスタイルのレシピを中心に、バターチキンカレーやサブジ(野菜のスパイス炒め)、豆料理などを教えてもらい、初めてのインド修行を無事に終えた。

料理修行の日々

 二度目のインドはケララへ、三度目は25歳の時にデリーのレストランで半年間勉強した。現地の人のスパイスの使い方、手の入れ方を肌で感じ、スパイスの役割を考えるようになった。
 「どちらかというとホールスパイスの香りを立たせることを意識するので、パウダースパイスはそんなに多くは入れないですね。何かのスパイスをとびぬけて目立たせようともしないし、入れすぎないようにも注意しています。食べてみて、ちょっとここにアクセントを入れたいなって時に、だいたい自分の中で方程式があるんですよね。要は、この何人前のカレーに対してここまでは入れられる、という量を計算しています」

 修行の道のりは長い。最初にアルバイトをしたのが「夢民(むーみん)」で、池袋や汐留、新宿など、色々な店舗で仕事をした。しかし、「この先、カレーに絞っていいのか」と悩むようになり、調理師専門学校へ進学。和洋中を経験し、調理理論の授業に夢中になった。そして卒業時、「やっぱりカレーでやっていこう」と完全に決心したという。
 まずは六本木のニルヴァーナニューヨークにてオープニングスタッフとして働き、のちに同系列のマンゴーツリーカフェでタイ料理の修行もする。(だから5Labでは蟹ポンカレー(プーパッポンカレー)などのタイ料理がある。ちなみに蟹ポンカレー、ものすごいおいしかった。私の推しです)
 タイ料理は2年半ほどで「やり切った」と感じ、今後追及していくのはやっぱりインド料理だと思った矢先、腰の骨を折ってしまい一旦料理の道から退くことに。
 今後も飲食とは関わっていきたい気持ちがあったため、「食中毒について学んでおいて損はない!」と衛生調査員に。ちょっとでも危険性のあるものは、すぐに漂白したり煮沸したりする癖がついたという。

go流サーグの誕生

織部焼の器に盛りつけられた、go流サーグ

 腰の調子が落ち着いてきた頃、求職活動中にとあるファンキーな社長と出会った。彼は、熟成肉の店を経営していたにもかかわらず、突然「肉とスパイス」の店に方針転換し、誰もスパイスの知識を持たぬまま店をスタートさせたのだった。そんな「肉とスパイス」というワードに胸を撃たれた二関シェフはオープン1週間後のタイミングでjindariに加わった。
 「最初パッとレシピを見たら、こりゃ駄目だと思ったので、手を加えたり、全く別物にしたり、”まだこの世にないものを作ろう”をモットーにメニュー作りに取り組みました」
 二関シェフの代名詞と言えばgo流サーグだが、このサグカレーが完全に形になったのもjindari時代だ。
 「僕は玉ねぎもほうれん草も全部手切りしていくので、結構時間がかかっちゃうんですよね。時間短縮するんだったらフードプロセッサー回してとか、色々試したこともあるんですけど。手切りのテイストに拘ってるので。
 原型は、ベジタリアンでも食べられるサグパニール。ただ、それだと旨味が足りないので、鰹と昆布の混合出汁とホールスパイスで炊きこんだごはんと食べてみたんですよ。そうしたら、動物性のイノシン酸とベジのグルタミン酸の相乗効果で、自分でこれ天才だなって思うくらい旨かった。その時、このサーグは、もっと伸びしろがあるなって思って、そこからまたお客さんの意見も取り入れつつ改良を重ねています」

自分の店を持つまで

 漠然と、いつかは自分の店を持ちたいと思っていた。タイミングやきっかけを待っていた時もあったが、奥様の「やる・やらないは覚悟を決めるかどうか」という言葉に背中を押され、決意したという。
「物件が見つかるまで2年半掛かりましたけど、やるって決めた時から、もうやることしか考えてなかったので、引く気もなくて。覚悟を決めたら不安が全くなくなりましたね。」
 そんな奥様は、超頼もしい元ギャル看護師。結婚し、子どもが生まれたタイミングではあったけれど、「楽しいこと、とにかくやっちゃえ☆ でも自分の責任は自分で負えよ☆」というタイプだったので独立を反対されることはなかったという。挑戦できる環境だったことも、重要な要素の一つだ。

これからの5Lab tandoor!!

ハヌマーン

 サーグと言えばgo流サーグ、と言われるような味を作り続けていくこと。10年以内にもう1店舗やること。手を動かして、調理の場に立ち続けること。老後は沖縄でペンションをひらくこと。日々、追求を続けていくことが今後の目標だ。
 「ホールスパイスやパウダースパイスに玉ねぎ、トマト、自然なものをかけ合わせて、1+1=3にすることが実験っぽくてすごく好きなんですよね。そういう化学反応みたいな部分が、たぶんハマったきっかけ。今僕がもし10代に戻ったら、研究者の道を進むかも(笑)高校行って大学行って微生物の研究とかしてるかもしれないくらい、そういう研究が多分好きなんだろうなと思いますよね。」

今週の雑記

どこもかしこも、ぴかぴかの厨房

 オードリーの東京ドームライブチケットが全然当たらない。若さまがThreadsにあと何日と書くたびにドキッとしてしまうけど、転売だけは手を出さないって誓っているから、祈るしかない。――なぁんて、武道館の時は応募すらしなかったのに。
 jindariが麻布にあったころに、食べに行けたのはたった5回だった。いったん充電期間に入ることを知ったとき、あのサーグにしばらく会えないことがとても悲しかったし、食べられるときにもっと食べに行かなかった自分を呪った。
 行けるときに行かないくせに、行けなくなると行きたくなるって、いちばんずるい。

 5Labのハコは10年の定借。つまり、10年後のあの場所には、もう5Labは存在しないということだ。だから、10年以内に2号店、3号店と店舗を増やすことを目標としており、「必ずやる」と二関シェフは言った。

 失って初めて気が付く、なんて下手なドラマみたいなセリフは好きじゃないけど。お店を営むパワーや覚悟、かかるお金、責任、日々の労働時間は、サラリーマンの私が想像する何倍も重いものだと思う。そんな覚悟に、決意に、責任に、見合うだけの何かを返したい。失わなくても、すごく大切な存在だって、気が付くことはできるから。

 おいしいって思ったら、おいしい、ありがとうって言葉にすること。自分をお客「様」と勘違いしないこと。そこに在ってくれることに感謝すること。ちゃんとお金を使うこと。そんな最低限のマナーは守れる自分でありたい。

 5Lab、大好きです。
2023年で一番うれしかったのは、西荻窪に5Labができたことかもしれない。

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