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006.海月が雲になる日|岸田貫生|CURRYgraphy

 ぼやっと生きていると、あっという間に年を取ってしまう。気が付けば32歳。同級生はママやパパになったり、転職したり、独立したり。いつかは、と思っている夢や目標も、そろそろ動き出さないと永遠に叶わないままタイムリミットを迎えるだろう。
 「その時が来たら、おのずとわかる」、そんな風に言われるたび、私は勘が悪いから「その時」を見逃しそうだと思ってしまう。思い切ること、決断することに異常に時間がかかってしまう。
 今回お話を伺った岸田さんは、私の中の計算では40代半ば。でも実際は、たった2つ上の34歳、同じ平成生まれというから衝撃だった。23、4で独立開業、今は何より家族との時間を大切に生きている。子が独り立ちするまではそんな風に生きたとして、およそ20年後もまだ50代半ば。そこから本気でまた働くのだという。こんなに、こんなに美しい生き方を私は知らない。
 「生きづらさ」という言葉が流行った時、生きづらければ変わる努力をすればいいと思った。パンがなくてもケーキにありつけるゆとり世代だったからなのかしらん。時流とか境遇を言い訳にしたくなかった。だって、やっぱりどんな時代の覇者も超ド級の努力をしている。


目立ちたいわけではなく、ただ格好よく生きたかった幼少期

 どの学校にもひとりはいる”冬でも半袖小僧”、それが岸田少年だった。とにかくみんなと同じは嫌で、半袖にベストとマフラーがいつものスタイル。大阪で日本料理店を経営する父、板前の叔父の手伝いをして小遣いを稼ぎ、貯めたお年玉と合わせると、岸田少年の懐には余裕があった。幼少期から独自のスタイル・生活を確立し、人より大人だと思っていた。
 料理はずっと身近にあったけれど、なぜ火を使うとものが焼けるのか、鍋の水が沸くのか不思議に思い、子どもの頃は魚や肉をひたすら焼いていた。家を継ぐという将来が、嫌になることも幸せに思うこともあって、とにかく早く、外の広い世界を見たかった。

きっかけは父親の入院

 高校3年生の時、父親が病気で入院した。その時、料理の道に進むことを決意し、大学受験をするつもりで通っていた塾も辞めた。卒業後は京都の料亭で住み込み修業を開始。しかしそれから2年、父は人に店を譲ってしまう。
 「急に帰るところがなくなったんですよ。寂しいなあって、1ヶ月ぐらい凹んだんですけどね。こんな呆気なく終わるもんかって。今後ずっと料理の世界にいられるかもわからなくて、料理は好きだけど改めて腹を決めてやらなくちゃいけないと思いました」
 ここで岸田さんは、子どもの頃から願っていた「外の世界を見る」ため、イギリスに2年間留学する。
 「フランスやオーストラリアなど、料理留学も様々ですが、イギリスを選ぶ人って聞いたことがなくて、みんなから馬鹿にされました。イギリス料理ってまずい! って。でもそこでタイ料理に出会いました」

タイ料理人生の始まり

 当時10代、大阪・南堀江で食べた東南アジア料理が口に合わず、パクチーに苦手意識があった。
「ノッティングヒル近辺に住んでいて、手前がパブ、奥はタイ料理レストランのThe Churchill Armsに通っていました。アジア料理が恋しかったですから、パッタイやトムヤムクン、タイカレーが好みになり、しっかりおいしかったんですよ。すごく身体に馴染みました。イギリスで食べたタイ料理は新鮮でした。心が躍ったことを覚えています」
 イギリスからタイへ、2週間の旅に出た。たまたま取ったホステルの1階にトムヤムクン、隣にカオ・パット(炒飯)の店があり、滞在中の朝食は決まってトムヤムクンと炒飯を食べた。『毎日食べても飽きない』タイ料理がそこにあった。

お店が日本にあることの意味と、自分だけの味

「既製品のカレーペーストにはもともと抵抗がありました。簡単に作れることに面白みを感じなかった。初めて作ったタイカレーはイギリスのチャイナタウンで買ったハーブを見様見真似ですり潰したものから。現地らしい味わい、素材感、爽やかさは意識しますが、僕らしいタイカレーを今も作り続けています」
 例えば、バンコクのNahmは、古典的なタイ料理のレシピを再現しつつも斬新な今っぽさもあるレストランだ。「こういうの作りたいな」という気持ちはあるけれど、そこでやっぱりこの日本で作っている意味を考える。
「日本人が来てくれるんだったら、僕らしいタイ料理を作ろうと思って」
 基本的に、岸田さんが作っているタイカレーは、「こんな作り方があるんだ!」と驚かれるくらい独創的な製法だそう。
「オーセンティックなタイカレーの作り方ももちろん知っているし、それも大好きです。でも店では作らない。僕の思いと季節感を乗せた、素材に誠実なタイカレーが海月が雲になる日のタイカレーです」
 そもそも、趣味ですら楽しむだけの時間にするのは好きじゃない。
「やっぱり、プロが作ってるものって違うんですよ、気合、魂の入り方が。僕は本物の陶芸家さんの器を使っている。『本物』というのは人生を捧げているという意味です。僕は子どもの頃からずっと料理をしていたし、身を捧げられるのは料理しかないんじゃないかなと思う。食材に向き合い、生きていくために料理をする。恵まれているからこそ今できることを頑張るしかないと思っています」

一回しかない人生を、「生ききる」ということ

 東日本大震災でも大きく人生観が変わったが、能登半島地震があって、なおさら「今日を生ききりたい」と思うようになった。
「家族といるとその他愛もない日常がいかに幸せか実感します。僕の生き方は料理を楽しむこと。自然に対する感謝と喜びの気持ちを料理で伝えられる人間になりたいです」
 自信のあったタイヌードルとタイカレーを作り続けて10年、1600円のランチとアラカルトのディナーから始まり、プライベートダイニングやコロナ禍のテイクアウト営業まで、形態を変えながらお店を守ってきた。

子どもが生まれてからは、家族と過ごす時間を大事にするため昼席のみの営業だ。
「誠実に仕事をしながら、精一杯家族と共に過ごす。料理は家族のためにもお客様のためにも、全力で楽しみたいと思っています」

次の世代に残していきたい、この場所。

 「この先も、この家を大切にしたい。明治末期の建物で、ここで僕がこのお店をやっている限り、僕の代だけで終わらせたくないですから。引き継いで、未来にまで残していきたいです。僕の料理もこれからきっといろんな変化があると思うので、それも楽しみです」
庭仕事もすべて岸田さんが担っている。夏になれば、「料理をしている時間が2と庭仕事が8」というのは言い過ぎかもしれないが、雑草のエネルギーがものすごい。そしてそんな環境に影響されて夏の料理はエネルギッシュな仕上がりになるという。
「庭、建物、料理、人。全て程よく心地よい空間にしたいと考えています。これからも旅をし続け、模索しながら自分なりの料理を作り続けたいと思っています」

今週の雑記

 桜の見頃は、一瞬で過ぎてしまった。考えてみたら今年で32回目の桜なんだけど、毎回初めて見たような感動を与えてくれるし、葉桜の頃には「来年はもっとたくさん見に行こう」と思わせられる。
 CURRYgraphyを始めてから、より強く意識するようになった「旬」。
「山菜、筍、生のグリンピースが出回ると春を感じる」と言ったら「走りのものはだいたい九州産だから、関東の春はまだだ」と夫に返された。九州から、東北から、「旬」を持ってきて見かけ上の関東の旬を長くするものだから、野菜の本当の「旬」も一瞬で過ぎ去る貴重なものだということを忘れていた。そんなことを下書きに書いている内に、季節は初夏になってしまったし。
CURRYgraphyを作りながら、おいしいもののおいしい時についてよく考えるようになって、普段の幸せを感じる瞬間が増えた。本になったとき、この気持ちも伝えられるように、季節感もちゃんと書き記しておきたいと思った。


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