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コロナを巡る「損得勘定」から政府の役割をもう一度考える――ワクチン・外出自粛・社会保障

1.ワクチン接種は誰のため?

 突然だが、新型コロナウイルスのワクチンは誰のために接種するものだろうか。
 「自分がかからないためじゃないの?」と言われたら、それは少し違うかもしれないという話から始めたい。

 PCR検査にせよ、ワクチンにせよ、さまざまな人がさまざまなことを述べているけれど、議論が割れる一つの要因として、「政府が感染症対策を行うとはどういうことか?」ということについての認識の違いがあるように思われる。
 行政が実施する感染症やその他の疾病、人々の健康に対しての一連の政策は、「公衆衛生」と呼ばれる。そして、その根幹を支えるのが「疫学」であり、医学の中でも一つの分野を形成している。
 公衆衛生学や疫学によれば、行政が税金を使って行う政策の目的は「ある集団の死亡率の減少や健康状態の改善」である。ここでポイントは「集団」というところで、その意味で、個人を対象とした臨床(各医療機関での個別の診療行為)とは対極に位置する。
 ワクチンについていえば、マスコミの記事やSNSなどを見ていると、自分が副作用に見舞われることを心配する意見と、それに対して否、カンペキに安全だ!と反論する意見の両方が出てきている。しかし、公衆衛生の考え方からすると、どちらが正しいともいえない。集団で見た時に、ワクチン接種を行うことによる利得(新型コロナによる死亡や医療崩壊を避けられること)が、損失(副作用など)を上回っていれば、その政策は実施すべきということにあり、それ以上でも以下でもないからだ。
 もちろん、ワクチンによる死亡者が続出するなど、いくら利が上回っていても、あまりにも損失が大きければ、そのような政策は社会的に許容されず(実際、薬害エイズ事件などの教訓もあり、厚生労働省はかなり副作用などについて慎重になっているようだ)、現実的にはただ利得>損失であればよい、ということでもないのだが、とにかく集団としての損得勘定が評価軸となっている、ということがポイントである。

※参考:ファイザー、モデルナ社のワクチンの効果と副作用については、国立国際医療研究センターの忽那賢志氏の記事が分かりやすいと感じた。

2.個人と集団の損得勘定のズレについて

 このことを聞くと、違和感を覚える人もいるかもしれない。集団としてワクチンを推奨することが望ましいとしても、個人単位でみるとどうなのだろうか、と。
 例えば、そもそも感染しても重症化することが少ない若者の場合、わざわざ時間を割いて医療機関に行き、副作用を恐れながらも、痛い思いをしてワクチンを打つメリットが果たしてあるのだろうか、と思う人もいるかもしれない。これは、公衆衛生があくまでも集団の利益を対象としており、「集団に対してワクチンを接種する際の利得/損失の比較」が、「個人がワクチンを接種する際の利得/損失の比較」と必ずしも一致しないことに起因する。

 似たような話がコロナ関係で別にある。そう、外出自粛の話である。「感染者を減らす」という集団単位での利得を得るための行政の呼びかけに対して、重症化リスクの高い高齢者などの場合は、「"自分が"死なないために出かけるのはやめよう」と、個人単位での利得でみても同じ結論を得ることが容易だ。しかし若者の場合は、そうではない。「単なる風邪とそう変わらないのに、なぜ大切な10、20代の時間を奪われないといけないのか」という不満を抱いている人は少なくないだろう。
※「新型コロナは単なる風邪」という主張には筆者は賛同しません。こわ~い話を沢山耳にしています。

 では、個人単位と集団単位の利得/損失が一致しないことは、解消すべき問題なのだろうか?当然解消すべき、と言いたくなるところかもしれないが、ちょっと待ってほしい。実は、個人単位と集団単位の損得勘定のズレを問題視しだすと、そもそも国家、特に社会保障制度というのは成立しなくなってしまう
 例えば、公的医療保険(健康保険)を考えてほしい。低所得者と高所得者では、明らかに後者の方が払っている保険料が高額(=損失が大きい)だが、病院にかかるときの医療費はどちらも3割負担で、利得は同じである。つまり高所得者の方が「損している」といえる。また、収入その他の諸条件が同じであれば、いつも健康な人と、生まれつき病弱で常に通院している人は同じ保険料を払っているが、後者の方が医療費が嵩む可能性が高いので、本来であればもっと高い保険料を払うべきであり、その分「得している」といえるかもしれない。
 なぜこのような一見不公平にも思える仕組みがあらゆる先進国で受け入れられているのかといえば、一つには、「皆同じ社会の一員なのだから、リスクも皆で分担しましょう」という社会連帯の思想が背景にあるからである。民間の医療保険であれば、健康な人より持病を持っている人の方が保険料が高くなるが、公的な医療保険はそのようには考えない。皆でリスクを分担し、支えあうのだ。
 そのように考えると、そもそも社会保障制度を備えた近現代の国家において、一方に「得している」個人、他方に「損している」個人がいること自体は珍しくもなんともないのである。

3.「個人の損失のルール化」が必要

 しかし、社会保障制度が「得する個人」と「損する個人」を作り出しているといっても、なぜそれが実現できているかが重要だ。
 ただ崇高な理念だけあったところで、実際に高所得者が自ら保険料を多く収めない限りは机上の空論に終わる。実際にその仕組みが成り立っているのは、それが市民に支持され、民主的なプロセスによって作られた法令によって、「一定の条件を満たした個人が同様に損をする」ように制度化され、年金や保険料の徴収という形で強制されているからである。
 逆にいえば、「どこの馬の骨とも知らねえ奴のために余分に保険料なんて納めたくねえよ!」という考え方が大勢を占めれば、(憲法改正が必要かもしれないが)このような制度だって変わり得る。実際、アメリカでは長らく公的な医療保険制度が存在しなかったのは周知のとおり。

 そのような視点で、ワクチン接種や外出自粛について改めて振り返ると、どうだろうか。ワクチン接種には副作用が伴う可能性があるが、根拠法である予防接種法には、健康被害に対する救済措置についての規定が設けられており、個人に生じ得る損失に対して一定の埋め合わせが保証されているといえるかもしれない。
 では、外出自粛についてはどうか。外出自粛の呼びかけは、何の強制力も救済措置も伴わないただの「お願い」に過ぎないが、この「お願い」が、日本人の国民性ともあいまって社会的な圧力と化し、事実上メインの対策として機能してきてしまった。しかし今や、個人(法人)の判断のみにすべてを委ね続けたために、個人単位の損得勘定に正直な人・会社は相変わらず飲み歩き(深夜営業を続け)、そうでない「真面目」な人・会社だけが損失を負うという構図が生じてしまっている。
 すなわち、社会保障制度一般では、主権者の合意のもと、法律で定めたルールに沿って個人が損している、いわば「個人の損失がルール化されている」のに対して、単なるお願いに過ぎない外出自粛呼びかけでは、「正直者だけが損している」状況が生じてしまっているという点が大きく異なるのである。
 その結果、昨年の春に比べて社会の分断はさらに深まってしまったように思える。繰り返しになるが、制度化されている社会保障制度とて、「皆同じ社会の一員」という意識があってこそ成り立っているものである。自粛呼びかけを主要なコロナ対策に据えることは、その意識を政府が率先して崩しにいくことであり、問題がある。
 国会は、私人の行動を一定程度規制すること、そしてある場合に税金を給付することをルール化した法律をつくることができる。行政は、そのような法律を執行することができる。この本来の機能に、果たしてどういう意味合いがあるのか、もう一度考える時であるように思う。



★落書き的なもの

「ちゃんと立法すればいいよ」という締めくくりをしたが、実は本当にそうすれば万事OKなのかというところを、重田園江さんのフーコー論を読みながら最近いちばん考えている。マスクをしない個人への轟々たる非難はフーコーのいう規律権力以外の何ものでもなく、おぞましいものを感じる。そして「人口」を対象とする公衆衛生、社会保障制度はまさに生権力的なものであり、社会秩序の創出とリスク管理という視点において、規律権力と共犯関係にある。とはいっても、現実の行政に携わる身としては、社会保障制度すら切り崩されつつある現状、そこから離れたオルタナティブを想像することは難しい。せめて立法を重視し「法的権力」としての形をとることで、政府の責任を明確にすることがまだ救いとなるのではないかという漠然とした考えが本稿の背景にある。

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