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囲碁史記 No.1

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囲碁史研究家の視点により、囲碁の歴史を貴重な資料をもとに解説。 No.1は本因坊算砂から道策まで。
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#本因坊

囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは

囲碁史記 第1回 初代本因坊算砂とは


本因坊算砂とは

 囲碁史において多くの史料や棋譜が残されるようになったのは本因坊算砂が登場してからのことである。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の俗にいう三人の天下人の時代である。近世の碁はここから始まったといえる。
 算砂は本因坊第一世。永禄二年(一五五九)五月、京都長者町で生まれた。本姓は加納、幼名は與三郎といった。
 與三郎は八歳のとき、後に寂光寺の開祖となった久遠院日淵の門(日蓮宗)に入り

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囲碁史記 第2回 本因坊の原点寂光寺

囲碁史記 第2回 本因坊の原点寂光寺


寂光寺初代 久遠院日淵

 ここで本因坊の原点ともいうべき寂光寺について述べていこう。寂光寺はこれまでも出てきたように本因坊算砂が二世住職を勤めた寺であり、歴代本因坊(世襲制)が眠る囲碁の聖地とされる地である。
 寂光寺は京都十六本山のひとつで日蓮大聖人滅後二九六年後の天正六年(一五七八)に久遠院日淵上人により京都近衛町に創建された。
 天正十八年には豊臣秀吉により聚楽第建設のため、寺町通竹屋町

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囲碁史記 第3回 本因坊算砂と織田信長

囲碁史記 第3回 本因坊算砂と織田信長

 

本因坊算砂は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えたという伝承があるが、それについて詳しく紹介していこうと思う。今回は織田信長である。
 算砂の伝承に関して囲碁史研究家香川忠夫氏の研究があり、これまでの伝承とともに見ていこうと思う。

名人の呼称

 算砂の資料に関しては伝説が多く、信憑性が低く推定になるところが多い。織田信長が「その方こそまことの名人である」と算砂に言ったことが名人の言

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囲碁史記 第4回 本因坊算砂と豊臣秀吉

囲碁史記 第4回 本因坊算砂と豊臣秀吉



 秀吉と算砂の関わりについて囲碁界の史料の中には存在するが、信長と同じく秀吉自身の信頼のおける記録の中には見当たらないのでなんともいえない。ただし、秀吉が囲碁を嗜んでいたことは公家の日記等確実な史料によって確認できる。
 囲碁好きであったのかは別にして、秀吉は囲碁を色々な駆け引きに使うこともあったようだ。

秀吉の囲碁に関する逸話

 囲碁が関わる秀吉の最も古い記録は『言継卿記』の元亀元年(1

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囲碁史記 第6回 本因坊算砂の貴重な史料

囲碁史記 第6回 本因坊算砂の貴重な史料

 本因坊算砂の頃より、実に多くの囲碁史に関する文献や史料が遺されるようになった。今回はそれらの貴重な文献を紹介していこうと思う。

本因坊碁経

 上の本はこれまで古書業界ではただ単に「碁経」という題で流通していた。今までこの版本に題の付いたものが発見されていなかったことがその原因である。序文はなく一頁目からの詰碁集となっている。その柱刻に「碁経」と印刷されているところから、その題名がついたと考え

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囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界

囲碁史記 第8回 徳川政権の始まりと囲碁界


江戸幕府成立直前の囲碁界

 豊臣政権の時代、碁打ちの有力な後援者は吉田社や神龍院などの寺院や大名たちであった。もちろん豊臣秀吉をはじめとする豊臣家の人々もそうであったが、大名では徳川家康、細川幽斎等があげられる。
 豊臣秀吉が慶長三年(一五九八)に没し、朝鮮侵攻中であった武将達が撤退してくると、秀吉の武将たちの間で反目や対立が顕著となっていく。秀吉が亡くなって二年後に関ヶ原の合戦が起こり、勝者

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