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多様な環境に育つ

私が生まれ育ったのはいわゆる東京の下町だが、いろんな子が普通にいた。


近所

となりの家の子は、劇団ひまわりに入っていて、時々テレビに出ていた。
向かいの家には、歳が1つ上1つ下の兄弟が住んでいて、よく一緒に遊んでいた。そのお兄ちゃんは自閉症だったのだが、当時私は知らされていなかったし、何も変だとは思わなかった。たしかにすらすら喋ってはいなかったが、名前も呼んでくれたし、楽しそうに遊んでいた。同じ小学校にも通った。

この家から数軒離れたところには、症状の名前はわからないのだが、車いすにいつも乗っていて、お母さんが車いすを押しているお兄さんが住んでいた。目が合うことはあれど、話すことはできなかった。
この人はひとりでバスで仕事に通っていて、都営バスの後ろが全開し、車いすで登っていくのをよく見た。

保育園(私立)

家から道を曲がってすぐだった保育園には、国籍はわからないけれど、日本民族ではない子が2人いた。ひとりは中国の子で、もうひとりはわからないけれど肌が黒く、名前も日本語ではなかった。この中国の子がもうひとりをいじっている構図で、転入生だった私もこの子にいじられたのだが、この子とは仲良くなった。

子供たちだけで家に行っていいルールではなかったので、成り行きは思い出せないのだが、この子の家にお邪魔したときに、4-5歳でありながら包丁を使ってばっちり料理をして、ピーマン炒めを出してくれた。美味しかった。そうしているうちに、この子のお母さんが家に帰ってきて、私は帰った。保育園では強気でいる子が、家ではこんなにしっかりしている。とても印象的だった。

ここの保育園には、校区以外から通っている子も多く、その子たちとはそれ以来になってしまった。その後、弟の都合と私の希望により公立の保育園に通うのだが、そこでは変わった子はいなかったように思う。転入生の私はまたいじられたけれど。

小学校

そうして小学校に入ると、2つの保育園に通っていたおかげで、ほとんどが知り合いだった。とはいえ、転校していく子も、入って来る子も、毎年1人くらいはいた。
1年生のときに転校してきた子は、お母さんが台湾の人だった。家に遊びに行ったときに、台湾バナナ美味しいでしょう、と出してくれたことを覚えている。美味しかった。
状況はわからないのだが、短期間だけうちの近所のおばあちゃんの家に住んでいて、学校に来ていたことも仲良くなった。翌年、この子のいとこが転校生として来た。家族で同居することになったそうだ。

校庭にある学童に3年間通ったが、そこには週に何日か、未就学のダウン症の子が来ていた。必ず先生が付き添っていて、私はこの子ともよく遊んだ。
ピアノが好きな子だった。
いわゆる文章は喋っていなかったように思うけれど、子供の意思疎通には何の不自由もなく(言葉が喋れなかったときの弟と大差ないからね)、この子が変だと思ったことはなかった。

それぞれの家

保育園のときからそうだったが、下町だからか、家業がある家も多かった。新聞屋の子は新聞屋の2階に住んでいて、小鳥をたくさん飼っていた。コンビニ(チェーンではない)の子はお父さんと一緒に時々お店に立っていた。小学校は小さかったので、classmatesの兄弟が何年にいる、あの子のお母さんは習字の先生/占い師/あの家は大家さんで家のとなりにアパートが立っている、など、みんな知っていた。

基本的には一軒家の子たちだったが(私を含め)、団地に住んでいて、家の電話があるのが当然の当時にお母さんの携帯しかない、なんてこともあったし、幼馴染の家のトイレは和式だった。うちも「ボロ家」とからかわれるような家だったけれど、古いと感じたことはなかった。

それが普通

人種・障害・所得いろいろな人がいたから多様な環境だった!と言いたいわけではない。この子たちは、私が生活する環境に普通にいて、違うとか、変とか、弱いとか、守らないといけないとか、そういう提示はされなかった。
下町のおおらかさなのか何なのか、親たちも特別扱いはしていなかったように思う。私はこの子たちが好きで(たぶんまわりの子たちもそう)、みんなで遊んでいた。

目立つことも特別視されることもなく、いろんな子がいるのが普通のことだった。振り返ってみると、こんなに多様で意図のない環境はちょっとめずらしいんじゃないかな、と思い、書いてみた。

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