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佐賀

第5回ソーシャルフットボール全国大会佐賀大会。
もうひとつの心の整理。


去年、次の全国大会が佐賀で行われるとチーム練習の帰りにスタッフから聞いた時、驚きとちょっとした笑顔と嬉しさと動揺が混ざった感覚が湧き上がった。

佐賀は私にとってかなり縁のある土地。私が小学生の時から父は佐賀で生活していて今も佐賀にいる。私にとっては2つ目の実家であり地元。馴染みのある街。



生粋のお父さんっ子だった。お父さんとするオセロが好きだったし、ボール蹴りが好きだったし、めんどくさいなと思うワンコの散歩もお父さんが一緒ならノリノリで行けた。途中でコンビニによってお菓子も買ってくれる。

だけど父は私と同じで精神的な弱さを抱えている人だと思う。そのことで悲しい思いもしてきたし、ほんとうの父がいないことが寂しくても我慢してきた。

私が歳を重ねるにつれて大好きな父は時々体調の波にのまれていった。それで佐賀に引っ越して生活をやり直すことにもなった。
それでも週末は京都の私のいる家に帰ってきてくれた。小学生の頃から忙しいスポーツクラブに所属してた私は週末も練習や遠征があって、父はいつも見に来てくれた。ワンコの散歩をしながら遠くから眺めてる人だった。その競技のアドバイスはあまりくれない、なのに公園でサッカーボールを蹴る時はあれこれアドバイスをくれた。ランニングにも後ろから自転車でゆっくりついてきてくれる人だった。父がいてくれると安心だった。

小学生の頃、監督からコーチから母から、結果のこと、プレーのこと、いつも怒られながら成長していく環境でスポーツをしていた。自分は一人でストレスやプレッシャーを排出も消化もできない体質で、性格的にも負けちゃけない失敗しちゃいけないって考え込んで、辛くなっていたけど、父のまえではのびのびできて楽しかった。

同時に、父の嬉しそうな顔をみるのも幸せだった。

スポーツをする時にパニック障害のような症状が出るようになって、初めて人前でも動けなくなった日、駅伝大会の日だった、父も見に来てくれてて、悲しい顔をしていた。気にするなともいってくれた。そのあと、学校も休みがちになった私に、父は父の子どものころの話を聞かせてくれた。
私は身体を動かせなくなって、父も体調が悪くなって、そののちもいろいろあって、それ以来、父とは会えんくなった。自分の中で父というものに蓋をした。全部、自分のせいだと思い込んでた。

9月、関西大会で佐賀行きが決まった。でもすぐには父に見に来てほしい旨を伝えることはできなかった。

父は約束を守れない人。だらしない人とかそういうんじゃなくて病気のせいで、だと思う。だから来てほしいと言えば、父を困らせる、うそをつくきっかけを、約束を破るその約束を作る方にも問題があるんじゃないか、父が来てくれなかったときに落ち込む、言わない方がいいんじゃないか。


1月中頃、抽選会の後、父に佐賀でフットサルの大会があるから見に来て欲しいとお願いできないか、姉に相談した。

本心は父に会いたいし、もう一度元気にプレーしている姿を、フットサルしている姿をみせたい。

期待はしない。でも言わないと来てもらえることはないから。父には期待しないけど、佐賀でプレーする姿を見せられるように自分には頑張ることを期待した。

ソーシャルフットボールへのモチベーションを見失っていた時期でもあった、頑張る、気持ちを持ち直す材料として父を使ったような気持ちもあり、そこは違ったなと反省もしているのだけど、姉にお願いして情報を伝えてもらった。

―大会前。
気にしないようにと思ってたけど、ほんとはずっと気になってた。
時々人にこぼした。父がくるかもしれないって。心のどこかでやっぱり父に期待してて、何度約束を破られても、今回はきてくれるはずと思いたくて、思ってて、勝手に喜んで人にも伝えてた。
伝えた後にいつも期待しすぎたらあかんって思い直してた。。

―大会1日目。
父の姿はなかった。明日来てくれるかも。来てほしい。

―大会2日目、準決勝。
キックオフの前に観客席に父らしき人をみつけた。確信はできなかったけど、すでに泣きそうだった。泣きそうなのと、とにかく緊張、最初のキックインのボールを蹴る緊張……、そわそわした。

ハーフタイム。ベンチ交代のときに、もう一度観客席を見た。やっぱり父がいて、手を振った。おっきく手を振り返してくれた。
幸せ嬉しさ頬がふっと緩んだ。

―準決勝終わり。
負けた悔しさ、白熱したゲームをチームのみんなとそして相手チームのみなさんと共有できた喜びや幸せ、いろんな感情を味わいつつ、父のことが頭にあった。

観客席に戻って、着替えるよりも何よりも、父を見つけて思わず廊下??を走っていった。
5分弱。父の隣に座って話した。
チームのこと、チームメイトのこととかスタッフのこととか、チームのあれこれ喋った。3位決定戦の時間を伝えて、そのあと着替えに戻った。
嬉しくてまた口角がちょっと上がってたと思う。

絶対絶対、自分がゴールを決めたい、ゴールを決めて試合に勝ちたい、ゴール決めて、父に向ってもガッツポーズするって何回も心に誓った。

―3位決定戦。
試合前のアップの時から父は観客席に座ってくれてた。
たぶん、試合前の名前とかのチェックのやつ、チームの中で一番に行って、レガースの確認、レガース入ってますってみせようと思ったら入ってなくて、審判さんに苦笑いされて、入れ直しにいったのも見られてたと思う(笑)
苦しい試合展開やった、準決勝の疲労も悔しいけど蓄積されてて、何回も観客席みた、お父さんの姿確認して、自分はそれでもっかい気持ち入れ直してた。お父さんからも力もらってプレーできた。

―3位決定戦、終わり。
負けた悔しさとでもなんだろうここでプレーできた喜びといろんなものをまたコート上で感じていた。ふと観客席をみると、もう父の姿はなかった。

3位決定戦のあともう一度次はもう少しゆっくり話せると思っていた自分と3位決定戦が終わればしれっと帰ってゆくのだろうと想像していた自分とがいて、でももうあの時はきっと話せると思い込んでいた。

コートから出て、喫煙所を見に行って、そこにはいなくて、観客席戻って、泣いて、悔しくて泣いたんじゃなくて、父のことを思って涙が出た。最後にもう一回だけ会って話したくて、観客席をぐるっと一周、父の姿がないか確認して歩いた。もう帰ってしまってた。

ロッカールームで泣いた。
もっと話したかった、自分のことが話したかった。久しぶりにあったのに、父の目は見ることができなかった。顔もしっかりは見れなかった。ほんとは少し怖かった。話す声が私の知ってる父の声じゃなかった。でも、あの5分しかないと分かっていれば。私、ありがとうも言えてない。

―帰り道。
佐賀から帰っていくのが嫌やった。どんどん関西に近づくにつれて父を想って寂しくなった。もう23才だけど、ひとたび父に会えただけで幼少期の心に戻ってしまった。父が佐賀に帰る日、いつも布団の中で泣いてたけど、あんときと一緒。
新大阪でチームメイトと別れて、私は乗り換えで京都行きの新幹線にぎりぎりで飛び乗った。15分程度の乗車だからとデッキに立ったまま窓から外を見てた。見える景色はなじみのあるやつで、帰ってきたなと。我慢我慢と思ってきたけどもうむりで涙が止まらんかった。
なんだけど、乗務員さんに声をかけられてチケット確認したいって、もってたチケット見せて、「京都で降りるのでもうデッキにいてます」と伝えたら、「ここはグリーン車のデッキだから、7号車のデッキならいいですよ」と。あああ、新大阪での乗り換えがぎりぎりで近くの扉に飛び乗ったんだけど、ああ。声かけてもらったおかげで落ち着きは取り戻せて7号車のデッキに移動できた(笑)

一日たった今日も、ふと涙がこぼれてくる。
父に会うことができて、もう一度父に見守られながらスポーツすることができて、ほんとに、ほんとに幸せだった。

応援にきてくれた父に感謝したい。
諸々の事情で気軽に連絡を取ることが出来ない父との調整役になってくれた姉にも感謝。

ソーシャルフットボールに出会い、この日まで続けて来れたこと、出会うきっかけをくれた方々やチームメイト、チームスタッフ、応援してくれる方々に感謝します。全国大会の舞台を準備してくださったみなさんやともにプレーしたみなさんにも感謝です。

この日、コートから見上げた父の姿は忘れないし、これからのソーシャルフットボール人生や自分の人生の支えにしていきたい。私も、父も、前に前に歩んでいくしかないんだと思う。生きててよかったし、生きててくれてほんとによかった。



父と母と私、家族の物語り。映画の考察とともに。(⚠︎︎長文注意)

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