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10才のわたしへ

前書き


今無性に自分の過去を掘り下げたい時期なんだと思う。自分の子どもの頃の写真が見てみたくなった。実は自分の幼少期の写真は訳あって余り残ってない。父と母に愛されなかったとかじゃなくてただ仕方のない小さな理由なのだけど。

小学校2年生のときに学校で自分のこれまでについてまとめましょうみたいな授業があって、友達は赤ちゃんの頃からの写真が残っててそれを現像して持ってきてて、でも私は写真がなくて、そのことがただただ恥ずかしかったことを覚えている。

それ以来自分の写真を見たいと思うことはなかったし、自分が学校で描いた絵だとか作品なんかもその学年が終われば教科書と一緒に処分する、それも母には何も聞かずに捨ててたと思う。当時の私は過去は流していくものくらいに思っていた気がする。

最近、noteを書いたりするなかで、子どものころの自分を振り返る中で、当時の自分の写真も見たくなった。

私には年上の姉がひとりいる。私の隣の部屋のクローゼットの一部に姉の荷物が片付けられている。もしかしてそこに私の写真が紛れているかもしれない、そこを漁った。
整理された10冊のアルバム。姉が生まれて成長していてそこに父と母がいた。私はまだ産まれてなかった。たぶんこれ前にも感じたことある、漁ったのこれが初めてじゃない。

アルバムを敢えて出しっぱなしにした。母に訴えたかった。寂しさに気付いてほしかった。でも口にはできなくて、姉のアルバムを漁った形跡を残すっていうずるいことをした。

思惑通り、母は写真が必要なのか聞いてきてくれた。写真がないことを知りつつも、うん、としれっと返してみた。母からあそこには☆の写真はないよと言われて、うん、としか答えられなかった。

そういうことだったのだけど、後日、母が会社から持って帰ってきたとか言ったっけ、ちゃんと聞き取れなかったのかあやふやだけど、母が無造作に写真が詰められた袋を出してきた。某携帯会社のリスのキャラクターのオレンジと緑と白のくしゃくしゃのちょっとしっかりしたビニール袋だった。そこにはたくさんの写真が入ってた。

その袋の中に入っていたのがこの手紙『20さいになった自分へ』だった。書いた覚えはある。その数日後に何を書いたか気になって開けてしまったやつ。だからすでに開封済みではあったけど、あの時捨ててしまっていた気がしたが、残っていた。懐かしい筆跡をみてありがとうと思った。

『20さいになった自分へ』


この中にはホッチキスでとめられたサイズの異なる3枚の紙が入ってあった。

20さいになった自分へ
今、あなたはくいなくいきていますか?
"くじけそうになったら昔の事を思い出してね"
あなたは一人ではありませんきっとどこかで友が待ってるからね。
ちゃんと大学へ行ってちゃんとした生活でくいのない生活をおくってください。
2010年9月4日土曜日1時10分
10さい   ☆

1枚目

写真について
みた?
こんなにいっぱいの思い出があっていっぱいの友達ないるんだよ
何かあったら写真見ろよ!
2010年9月4日土曜日1時30分

2枚目
こんなにいっぱいの集合写真をありがとう(笑)

成長ノート
10さい 12日
たい重 30.5
しん長 138.5

3枚目
紙切れに書くの今の私とお変わりないなあ。画力も変わらない(笑)

『10才のわたしへ』


10才のわたしへ

手紙を残してくれてありがとう。写真もたくさんありがとう。
10才のあなたは友達に囲まれていたんだね。友達のこと大事に思ってんだね。ひとりじゃないってもう気づいていたんだね。
今の私にも友達がたくさんいるよ。今の私もひとりじゃないから安心してね。

“今、あなたはくいなく生きていますか。”
23才の私の答えは「はい」です。くいなく生きてます。20才のあなたの答えは「いいえ」だったかもしれない。20才のあなたが返事を書いたらこの社会で生きることの辛さをつらつらと説いていたかもしれない…。

“ちゃんと大学に行ってちゃんとした生活でくいのない生活をおくってください”
10才のあなたは頑張り屋で、スポーツも勉強も真面目に取り組んで、お母さんを困らせないようにと、ちゃんとした子だったよね。未来のじぶんの幸せや安心を願って励ましの言葉を書いてくれたんだろうな。ありがとう。



大学に行きたいと思い始めたのは周囲より早かったと思う、14・15才の頃だった。大学では自由に好きなことを探究できる、自分の知りたいことが分かると思っていたから。
私の中にはどこか人と違うところがあって、どこか生きづらくて、でもどこが問題なのかは分からなくて、だから対処も分からなくて、ずっとしんどかった。この自分のうちにある問題を追究できる学問を探した。最終的に、心と身体の健康を学ぶことができる大学へ進学した。

でも、20才のあなたは大学にはいなかった。大学はやめてしまっていた。心と身体に不調が出ていて、病院で長らく休憩をとっていた。

10才のあなたはかなり衝撃を受けるかもしれないね。たぶん自分にそれなりに自信もあっただろうし、頑張れる子だったし、ちゃんと頑張っていたから、20才のじぶんも頑張っていると思っていただろうし、大学に行かないとちゃんとした生活は送れないと思っていたかもしれないね。

20才のあなたはかなり絶望していた。ひとりだけ社会から取り残されていると、大学を中退した私にまともな未来なんてないと思い込んでいた。この時がこれまでの人生で一番つらかった。

でも、大丈夫だった。
大学が人生のすべてじゃなかった。
今の私は、私が学びたかったことを学ぶことができる場所に繋がっていて、新たな友達にも出会って、今に満足している。
それなり生活していて、悔いなく生きてきてるよ。

10才の頃の私、20才の頃の私は、弱い自分はダメで、人から自分の弱さを見られることは絶対にダメで、失敗することが怖かったと思う。今もまだ怖い。
ちゃんとした人間で、しっかりした人間で、自立した人間じゃないとだめだと思っていた。同時にちゃんとしてない人を見ると、いつも心の中で裁いていた。いつも自分の物差しで他人をはかっていた。
自分がちゃんとできているのだから、他のひともしんどくても辛くても頑張るべきとさえ思っていたかもしれない。
だから自分がちゃんとできなくなる、身体が動かなくなる、心のバランスが崩れていくことを受け入れられなかった。そんな自分見れなかった。
大学を中退する日、それは人生の終わりの日のように感じた。もう消えていなくなりたかった。

でもね、大丈夫だった。繰り返すけど大丈夫だった。
心身の病気になり、大学を辞めて、時間ができたことで、同じ病気を抱える仲間に出会っていった。だから、大丈夫だった。
同じように弱さを抱える人で、同じように真面目な人たち、でもね、前を向いて生きようとしていた人たちだった。

ある日、一人の仲間に死ぬほど怒られた。
「あんた自分が思ってるより価値ある人間ちゃうで」って。そのあともたくさんマシンガンのように自分の聞きたくない言葉が降ってきた。
その通りだった。嬉しかった。怒ってくれる人がいることが嬉しかった。自分と向き合うことで私も変わっていけることを知り、ほっとした。

14・15才の頃から学びたかったこと、いやほんとはもっと前から9才くらいからすでに自分の中にある違和感が何なのか、どうすればいいのか、知りたかったこと、大学に行ったけど、答えは見つけられなかったこと。これらの答えはこの仲間との関わりや繋がりの中で学ぶことができることに気が付いていった。そして、仲間はいつも私のことを大切にしてくれる。だから私も仲間を、他者を大切にするということができるよになりつつある。これも私が学びたかったことのひとつだよね。

今、再び、大学で学ぶこともしているよ。通信制だけどね。自分に最適な大学と出会うことができた。
くいはない。自分が今の自分の生活を良い感じだと思えている、これでよかった、むしろこれが良かったと思う。もちろん同級生と比べると遅れているのかもしれないけど、人と比べることもいつしか減ってきたように思う。



ちゃんとできること、ちゃんと大学に行き、ちゃんとした生活をおくることも良いことだし、理想的だよね。でもそれだけじゃない。大学をやめたかた出会えた世界もあるし、学べたこともあって、もちろんあのまま大学を卒業していたら出会えた世界、学べたこともあるけどね。
大事なのは、その時々のあなたが幸せかどうかなのだと思う。“あなた自身”が幸せかどうか。主語はお母さんでもないし、先生でもないし、そのほかの人ではない。主語は私。自分自身が幸せである選択を取った先に自分が納得できる出会いや充実した学び、安心な周囲との関わりが待っているのだと思う。

学校が全てじゃないし、良い会社に入ることがすべてじゃない、世界はあなたが思っているより随分と広くてでっかい。自分がやりたいことをやればいいし、やりたいことを見つけるために、まずはあなたらしく生きてみることから始めたらいいと思う。簡単に書いたけど簡単なことではないのだけどね。

10才のわたしへ、じぶんのためにちゃんと頑張ること、ちゃんと生活することはあなたの強みになると思う。すごくエネルギーのある子だと思うから。やりたいこと何でもできるよ。でも、時にはじぶんのために友達と遊ぶ時間もちゃんと楽しんでね。

23才のわたしより

集合写真の他にスイミングスクールで購入したと思われる写真も数枚同封してくれてました。10才の私へ、今はとっても大きい海でとっても自由に泳ぐ喜びを知ってます。たくさん泳ぐ練習してくれてありがとう!

『33才のわたしへ』


愛されたい、認められたい、この2つの欲求をとても強く持っています。老いることで、頑張れなくなることで認められなくなる、大人になることで他者から愛されなくなる、そのことを恐れていています。まだ生きることをあきらめないでいてくれたのならば、ありがとう。今の私はこのこととどう向き合い、考え、折り合いをつけ生きていますか。聞かせてほしいです。

睡眠薬を手放した今、それは時に苦しく、生きづらく、絶望し、生をあきらめたくなります。でも、生きてます。他者と繋がることで苦しさを抱えられること、苦しさはいずれ静まること、自分の中にある希望、自分のうちから湧き上がる幸せの感覚、この二つのことを知って以前よりも生きやすくなったと感じています。それで、それでも生き続けています。今、あなたは何を感じ、生きていますか。

いつか、これまでの、これからのたくさんのノートを見返したくなる日がくると思う。また、いつか、何才かの私がこのページを見つけてくれると思う。

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