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梅仕事に思う「無心の時間」の必要性

毎日忙しい。
仕事に家事に育児、自己研鑽に趣味…
朝起きてからやること、やりたいことを書き連ねていけば、3000文字くらい簡単にいきそうなくらいには、毎日タスクが山盛りだ。

加えて言うならば、スマホ一つあればなんでもできてしまう世の中が、隙間時間という隙間時間を消しにかかっている。
家事の合間に仕事のSlackをチェックしたり、エレベーターの待ち時間にTwitterを覗いたり、夕飯の支度をしながら資格試験の動画を視聴したり… と細切れになった「やること/やりたいこと」が折り重なるように私の時間を埋めていく。

そんな生活も悪くはない。
以前noteにも書いたかもしれないが、私はマルチタスク状態の方が全体として生産性が上がるタイプだ。(と思っている。本当に良いことかどうかはわからない。)
1週間休みをとって集中して資格の勉強!とかするよりは、毎日仕事をガンガンこなしつつ、短時間を積み重ねて進めていく方が性に合っているし、結果として仕事の成果も資格試験の合格も両方手に入れやすい。
だから、今の生活に大きな不満があるわけではないのだ。

ただ、薄々気付いていることがある。
「ボーッとする時間」「頭を空っぽにする時間」が極端に減ってしまった。

頭の中では、常に複数の物事がぐるぐると回っている。もっと具体的にいうと、映像(文字を含む)が次々と浮かんでは消えている。もちろんイメージの話だけれど、視覚優位な人にはわかってもらいやすいのではないだろうか。
例えば、台所に立って夕食の支度をしている時。フライパンを振りながら、次にすべき行動がToDoリストかバーチカル式手帳の形になって脳内に浮かんでくる。次の瞬間、ふっと思い出したSlackのメンションが横からスライドされてきたりもする。目の前にはリアルな映像として火が通った食材があり、次に加えるべき調味料が頭の中に浮かぶ。脳内マルチスクリーンは、大抵いつも忙しい。

もちろん、起きている限り、頭が完全に空っぽになることはない。そんなことはわかっている。
でも、何か考えようとしても頭に入ってこないくらいの「ボーッとした」時間が必要なのだ。


1年くらい前から忙しくなり、ひたすらに走り続けてきて、ようやくこの時間の大切さに気づけたのはつい先日。

何年振りかに青梅を買い、シロップを作るための下処理をした時だった。

長男が生まれる前からずっと、我が家の夏支度の一つだった梅シロップづくり。
アメリカに引っ越したのをきっかけに途絶え、帰国後もなんとなく再開しないまま3度の夏を過ぎ…の今年。
…… いい!とてもいい!!!

水を張ったボールに梅を入れた時点ですでに気分が高まる。


青梅の下処理

一つ一つ丁寧に洗い、黒いヘタをとる。
丁寧に水気を拭く。

文字にすればなんてことない手順で、実際にやってみても黙々と手を動かす単純作業だ。
でも、やってみて気づく。この「黙々と手を動かす」ということで、脳内が程よく空っぽになっていることに。

考えるのは手にした梅の実のことだけ。ヘタを綺麗に取り除くように、水気を残さないように。それだけを頭の片隅に置いてしまえば、黙々と動く手の一方で頭がぼんやりとしてくる。とても心地よい。

始める前は「ちょっとめんどくさいなぁ」と思っていたことが、とてつもない脳内リフレッシュになっていることに気づいたのは、下処理が終わった梅が山積みになった時だ。目の前の青梅に集中していた時間を例えるのなら、写経のようなものだろうか。
精神統一というとかなり大袈裟だけれど、マルチタスクで脳内フル稼働な私にとっては、そのくらいインパクトのある時間だった。

私にとって梅シロップづくりは、もしかしたらこの感覚を得たいがためにやっているところもあったのかもしれない。
だって、かつての私は、フルタイムのワーママで、仕事を持ち帰るくらい忙しくて、とても生活に余裕があるわけではなかったのだから。
それでも毎年梅仕事に励んでいたのは、食いしん坊だからでも、丁寧な暮らしを目指していたからでもなくて、余計なことを考えずボーッとする時間が必要だったからなのかもしれない(食い意地…というのはもしかしたら多少あるかもしれないけれど)。

そう考えてみると、苺の季節にジャムを煮るのも、リンゴの季節にコンポートを作るのも、どれもこれも同じ理由なのかなと思えてくる。
きっと私にとって必要な儀式なのだろう。

その結果として、美味しいシロップやジャムが出来上がるのだから最高だ。
ぼーっとする時間とセットでの季節の手仕事。
これからは「時間がないから」という言い訳は無しにしてやっていこうと決めた。


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