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「誰が言っているか」は入り口でしかない

「この人が言ってるのだから、この情報は信頼できる。」というのは、玉石混合の情報が溢れる中では、とても大事な判断基準だ。

例えば健康情報。全ての人に関係する「健康」の話だからこそ、テレビでも雑誌でもネットでも、情報が溢れている。そんな中で私たちがしなければならないことは、「信頼できる情報」を集めることであり、「信頼」の大きな部分を占めるのが「誰の意見か」「誰が話したことか」ということだ。

この判断方法はもちろん一般人にとって必要なことである。自分で幅広く情報を取り、その根拠を調べ、反対の立場の意見も見つつ主張の正しさを確認し… という作業を一つひとつやっていくのは気が遠くなる作業でしかない。専門家でもないのに、自分の健康のためにそこまで時間を割いていたら、それこそ不健康になってしまう。

だから私たちは、「信頼できる専門家」を探す。上記のような、情報の正確さを判断するために必要な作業のすべてを、的確にやった上で、一般にもわかりやすい言葉で解説をしてくれる人を探す。

「信頼できる専門家」の存在はとても大切だ。そこに全く異論はないし、私自身、自分の仕事や生活に関係する分野で、そういった存在を何人も持っているる。(もちろん、心の中で。面識のない人がほとんど。)

でも、その上で「信頼できる専門家」にもたれかかりすぎるのは危険だ、ということも言いたい。理由は二つある。

一つ目の理由は、「情報は更新されるもの」だから。

私も元科学者の端くれで、いろいろな科学の議論を学会でも論文でも、もちろん自分の仕事の中でもたくさん見てきた。その上ではっきりと感じていることは、「より誠実な科学者ほど、自分の研究成果について謙虚である」ということ。

研究結果がいかに素晴らしいものだったとしても、そしてそれに対する評価が高かったとしても、「現時点の科学として解明できていること」としてとらえ、「この先、自分の研究結果が更新されていく可能性」をわかっていて、そうやって「科学の力で世界が進化していくこと」を心から望んでいる、ということだ。

つまり、自分の研究結果はあくまでも「点」または「ある点からある点までを結んだ短い線」であり、未来に伸びる線や、他の研究によって成果が平面的に広がっていくことを当然としている。そこからくる謙虚さ、なのだ。自分の研究結果が最高峰でゆるぎないもの、などという考えはなく、ひとつの研究結果として、実に謙虚に、ニュートラルに主張をする。

この点に関していえば、真に信頼できる専門家であれば、寄りかかることの危険性は少ないだろう、と思っている。(でも、「自分の研究結果がすべて!これで健康になれる!」といったとんでもない主張をする専門家もいるので、そこは本当に要注意だ。)

そして、「信頼できる専門家に寄りかかりすぎてはいけない」と考える理由の二つ目。私はこちらがより重要だと思っているのだが、「自分をないがしろにする危険」だ。

その専門家の主張が、自分がすでに実行していることや、受け入れやすいものならばいい。でも、そうでなかった場合はどうだろう? 選択肢はいくつかある。
・ 受け入れない
・ 自分が許容できない部分を解消するようなオプションを探す
・ その人の言う通り、(無理をしてでも)受け入れる

真面目な人ほど、無理をしても受け入れるという選択をしてしまうのではないだろうか。この場合の無理が自分自身だけならまだいいが、家族を巻き込んだものはもっとやっかいだ。

最近、EBM(Evidence-Based Medicine;科学的根拠に基づく医療)について考えを整理したいと思っていていろいろ考えたり、調べたりしているが、EBMにおいても「エビデンス(科学的根拠)が治療を決めるのではない。患者が治療を決める。」とされている。エビデンスは治療法を決めるための重要な判断材料になるが、それだけで方針を決めるわけではもちろんなく、患者の意向や患者の状況や置かれている環境などを考慮し、(その他にも医師の技術などほかの要素も加えたうえで)最終的に判断されるというものだ。

医療であれば、医師が「患者(自分)がどうしたいか」を引き出してくれる。でも、健康管理をはじめとする日常生活のいろいろな物事においては、「自分がどうしたいか」は自分で引き出すしかないのだ。

「自分がどうしたいか」は「専門家がどう言っているか」(EBMで例えるならエビデンスに当たる部分)とは別に、判断基準として持っていなければいけない。だから、「自分がどうしたいか」の部分をすべて専門家の意見にゆだねてしまう態度というのはとても危険なのだ。

「難しいことはわからない」と思考停止する必要はない。「自分の生活」を生活環境や経済状況、時間の使い方の希望、家族の嗜好など様々な要素を含む要素として考えれば、その専門家は自分以外にありえないのだから。

「自分の生活」の専門家として、この意見をどう捉え、どう受け止めるか。
そういう思考をすることが、「この人が言ってるのだから…」という思考から脱却する秘訣だと思う。


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