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会えなかった恋人 尹東柱と茨木のり子(「どこにいても、私は私らしく」#15)

2月16日は、詩人尹東柱(ユン・ドンジュ)の命日だ。植民地時代に日本へ留学し、治安維持法違反の疑いで捕まった尹は1945年2月16日、福岡刑務所で獄死した。終戦の半年前だった。

2019年の命日に合わせ、尹が通った京都の同志社大学で追悼行事が開かれた。同志社大学には尹の代表作「序詩」の詩碑がある。1995年に建てられた詩碑のそばには韓国の国花ムグンファ(ムクゲ)、北朝鮮を象徴するツツジ、そして同志社大学創立者新島襄が愛した梅の木が植わっている。

尹は、韓国と北朝鮮、日本はもちろん中国にも縁のある人物だ。尹は現在の中国・延辺朝鮮族自治州で生まれ、平壌や京城(ソウル)で学んだ後、日本へ留学した。この日は日本人、韓国人、在日コリアンらが集まって詩碑に花を供えた。同志社だけでなく、その前に尹が留学した東京の立教大学、福岡刑務所の跡地近辺でも毎年追悼行事が開かれている。

2019年は、韓国からの団体が、福岡、京都、東京の3ヶ所を追悼に訪れた。3ヶ所を回りながら、地元の人たちとも交流する企画だった。私は企画段階から携わり、通訳・翻訳も兼ねて参加した。日本で毎年尹の追悼行事が開かれていることは、韓国ではあまり知られていないが、27歳という若さで亡くなった尹を悼むのは、日本の植民支配や戦争責任を考える時間でもある。
この企画の中で、福岡、京都、東京は例年の追悼行事に参加する形だったが、大阪では別途、交流会を開いた。駐大阪韓国総領事館と韓国の散文作家協会が主催し、尹だけでなく、日本の詩人、茨木のり子も一緒に追悼するもので、韓国からの一行と、関西の尹東柱ファンの集まり「尹東柱とわたしたちの会」のメンバーらが交流した。

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茨木のり子は、尹東柱を日本で知らしめた立役者だ。この日東京からゲストとして参加した在日コリアンの作家、徐京植(ソ・キョンシク)氏は「二人は会えなかった恋人のような関係」と話した。茨木が尹のことを知るのは、尹が獄死した後のことだ。尹の詩集『空と風と星と詩』が出版されたのが彼の死後なので、当然と言えば当然だ。

ところが、茨木のエッセイを読めば、尹に恋心を抱いているように感じられる。そのエッセイは、『ハングルへの旅』という彼女の著書に登場する。これが高校の国語の教科書に載り、1990年から少なくとも77万部は出版されたという。77万人が、高校時代に尹東柱に出会っているのだ。この教科書を出版する筑摩書房の当時編集者だった野上龍彦氏によると、茨木自身も、そのエッセイが教科書に載るわけがないと思っていたという。日本の軍国主義の犠牲者である尹の話が教科書に載るには、文部省(当時)の検定を通らなければならないからだ。

検定を通すために尽力した野上氏は、「尹東柱詩人の人生を学ぶことは、日本の高校生にとっても生きる上で大きな力になると信じていた」と話す。当時別の教科書の検定で問題が起こり、その隙を狙ってなんとか通ったのだという。

教科書に茨木のエッセイが載ったことは、同志社での詩碑建立を進める力にもなった。同志社での追悼行事の後の講演会で、野上氏は満足そうな表情を浮かべ、「いい仕事をしたと、自負している」と話した。野上氏の講演を聴いた韓国の淑明(スンミョン)女子大学の金応教(キム・ウンギョ)教授は「講演内容は韓国の人たちがほとんど知らない貴重な証言だった。日本で真実を知らせようと市民らが闘い、平和への扉を開く努力をしてきたことを韓国の人たちももっと知るべきだ」と話した。

大阪での交流会に話を戻すと、徐京植氏の話を聞いていて、もしかすると茨木が韓国やハングルに関心を持ったきっかけは、徐京植氏が作ったのかもしれないと思った。徐京植氏は、徐勝(ソ・スン)、徐俊植(ソ・ジュンシク)兄弟の弟だ。1971年、二人の兄は、ソウル留学中に国家保安法違反容疑で逮捕され、収監された。禁じられた朝鮮語で詩を書き続け、治安維持法違反容疑で捕まった尹にもつながる気がする。当時多くの在日コリアンの留学生が「北朝鮮のスパイ」という容疑をかけられて逮捕された。

徐京植氏は、兄の徐俊植氏に自身が好きな茨木の詩集を送った。兄はその詩集を韓国語に翻訳し、弟に手紙で送った。徐京植氏はこの話を茨木に知らせ、二人の親交が始まる。2006年に茨木が亡くなるまで、親しい間柄だった。徐京植氏は茨木が直接書いた死亡通知書を受け取ったという。茨木は親しい人たちに死亡の日付を空欄にした死亡通知書を生前に書いていて、亡くなってから親類が日付を入れて発送したのだ。最期まで魅力的な人だったようだ。

2017年は、尹東柱生誕100周年で、韓国でたくさんの関連行事が開かれたが、その記念の年が過ぎると静かになった。むしろ日本の方が、100周年に関係なく、尹の追悼を続けている。韓国から参加した人たちは、その様子に感動していた。

実は大阪での交流会は、私が言い出しっぺだった。日韓の文化の違いもあり、実現するまでには多くの問題も起きた。当日の通訳は短い時間だったが、準備段階での度重なる通訳・翻訳に疲弊することもあった。でも、私以上に苦労した大阪側の現場担当者が、当日の交流を眺めながら、「何よりも、尹東柱詩人が天から見守りながら、喜んでいると思う」と言うのを聞き、一気に疲れが吹っ飛んだ。

ヘッダー写真:同志社大学における追悼行事にて撮影

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成川彩(なりかわ・あや)
韓国在住映画ライター。ソウルの東国大学映画映像学科修士課程修了。2008~2017年、朝日新聞記者として文化を中心に取材。現在、韓国の中央日報や朝日新聞GLOBEをはじめ、日韓の様々なメディアで執筆。KBS WORLD Radioの日本語番組「玄海灘に立つ虹」レギュラー出演中。

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